ミテンの本棚 > みやざき風土記 | ||||||
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![]() 6月25日に真金山法華嶽寺を参詣している。法華嶽寺は養老2年(718)法華岳山頂に釈迦・薬師に2像を安置して金峰山長喜寺と号して開創、平安初期の延暦二十五年(八〇六)入唐帰朝した伝教大師(最澄)が供養の便を考え、山頂から現在地に諸堂を建立し真金山法華岳寺改称、のちに和泉式部が病気平癒を祈願し参籠したという伝承がある。 尾張藩士天野信景が著した『塩尻』では、六十六部が廻国する全国六十六ヶ所の寺社のうち日向国は法華嶽になっている。「日向法花嶽 釈迦」 7月1日には天照皇太神宮を参拝している。これは宮崎市上北方にある磐戸神社のことで堂社の後ろに窟がある。古来よりこの窟は天照大神が隠れた天磐戸と伝え、祭神は天照大神である。同社には別当寺真言宗岩戸寺があった。なお社前には廻国供養塔が2基残っている。 寛政元年(1789)8月10日、有田(宮崎市)で十一面千手観音を彫刻し、同10月10日には木原(清武町)で秋葉大権現を彫刻しているが、この頃が行道にとって最も充実し国分寺住持という誇らしい時期だったのかもしれない。 寛政3年(1791)正月23日に国分寺が焼失、これから国分寺再興のため浄財をもとめて行道は托鉢に出る。これから行道自身が述べているように難行苦行の時期となった。 同年8月3日には平岩(日向市)で「利剣六字名号」を描いている。平岩では3年前勝軍地蔵を彫刻しているので、人々は快く国分寺再興の寄進に応じたと思われる。 ![]() 「 奉 納 日向国宮崎郡 生目八幡宮 亀甲山速日峰 寛政三辛歳 大宮司 九月七日 高妻淡路 [印] 行者丈 」 と納経帳に書いてもらっている。生目神社は生目八幡と称し、祭神平家の武将悪七兵衛は「源家の栄達を見るに忍びず」と両眼をえぐったという伝承から、眼病の効験あらたかとして多くの参詣がある。 そして、宮崎から南下し飫肥(日南市)辺りを托鉢する。 寛政3年(1791)9月10日には日御崎寺(宮崎市折生迫)を参拝している。同寺は推古天皇期に百済国日羅上人が開いたと伝える古刹、日向七堂伽藍、日向七観音の一つである。中世末宮崎城主の上井覚兼や橘三喜や高山彦九郎、野田泉光院らが参っている。 ![]() 祭神は鵜葺草葺不合尊ほか、社殿は鵜戸岬の海岸、太平洋に向かった洞窟内にあって、壮麗な権現造りの神殿が建立されているが創建年は不明である。 仁王護国寺は延暦5年(786)僧光喜坊快久が開山。当初天台宗後に真言宗となり、慶応3年(1867)まで59代続いた古刹で、この間島津氏が飫肥を治めているときは島津氏、伊東氏が飫肥を領するときは伊東氏とその時の領主の庇護を受けた。 永禄元年(1558)には伊東義祐が山門を再建し、天正15年(1587)には伊東祐兵から高431石の地を寄付された。寛永5年(1628)伊東祐実のときに寺社を改築し支院十二坊を置いたが、慶応3年(1867)寺院を廃し、明治5年(1872)山門や十二坊を廃毀した。 |
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2011-05-31 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長 現在、宮崎県民俗学会副会長、清武町史執筆員 ![]() 『鵜戸まいりの道』(私家版) 『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社) 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史 民俗編』 『北浦町史』 『日向市史』 『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店) 『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社) |
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