ミテンの本棚 > みやざき風土記 | ||||||
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![]() 「猪や鹿が川北郷船河村(都農町舟川)の農作物を荒し農民が困窮しているので、心見村名主清五郎が獣害を防ぐ高石掛(猪垣と思われる)を築き立てたい、その費用は畑倉山を炭山として許可を得、その益金で支払うというもので、建設費161貫456文の内、116貫668文は明和4年(1767)に、残金44貫788文は明和8年に御金方に納めた」という内容である。(『宮崎県史料第三巻高鍋藩続本藩実録(上)』) 舟川村は石垣のある戸矢山東麓にあり、畑倉山から尾根伝いに東へ下ると戸矢山、さらに下ると舟川となり、畑倉山と舟川集落のほぼ中間に戸矢山が位置する。畑倉山の西に児湯地方最高峰尾鈴山が位置し、尾鈴や畑倉山中の猪鹿は戸矢山を経て直線的に舟川へ下ってきたと思われる。『続本藩実録』にある猪鹿害を防ぐ高石掛が何処であるのか記述されていないので、戸矢山に築かれている石垣がこれに当たると断定できないが、地形その他から同一である可能性はあると考える。 ![]() 戸矢山稜線上凡そ1kmの石垣は、舟川へ下る二本の尾根を分断するように構築されている。このことは尾鈴山や畑倉山など奥山から下ってくる獣をこの石垣でくいとめたものと推察する。 ![]() 舟川の北に征矢原という集落がある。この征矢原には戸矢山から下る稜線があり、この稜線上には舟川と同様の段丘状の畑地が存在し、戸矢山で阻止された獣が征矢原へ下ることは充分考えられる。確認していないが戸矢山北部には征矢原への獣を阻止する石垣が存在するのではないかと推察する。 『続本藩実録』の安永7年(1778)11月6日の項に、「椎木郷寺山では猪鹿が作物を荒して困るという願いが出たので寺山を焼き払い焼き狩りをした」という記述がある。 ![]() 戸矢の石垣は建設当時は高さ70cm~80cmを保っていたと推察する。この高さでは鹿は阻止できないと思われるが、猪の行く手を遮ることは可能である。現在獣害を防ぐために使用されている電気柵は2本の電線を耕作地周囲に巡らせ、下方の電線は地上30cm上方のそれは45cm、猪は45cmの高さは跳び越えることは不可能であるという。また、猪は不自然な構築物には非常に敏感であるともいう。かつて西米良村で焼畑が営まれていた頃、猪の耕作地への侵入を阻むためシシカジメという柵を周囲に配していた。親指大2m~3mの竹の両端を地面に挿して半月弧状にし、それを一部重ねた連続した柵である。非常に簡単、粗雑な柵であるがそれで猪の害を防いだというのである。戸矢山の石垣は70cm~80cmもの高さがあったもので獣の侵入は充分阻止できたと思われる。行く手を阻止されると阻害物に沿って移動する習性が猪にはあり、結果的に猪は進む方向を垣で変えられるのである。 ※建設費161貫456文を現在の貨幣価値に換算すると凡そ530万円となる。 |
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2010-02-12 更新 | ||||||
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