ミテンの本棚 > みやざきの近代を読む | ||||||
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![]() なお、これから西南戦争前半の激戦である田原坂の戦い前後のことをテーマに記述するが、利用する史料が主として政府から出されたものであるため、記述の視点を政府軍に置くことを予めお断りしておく。 植木での戦いの当初、政府軍内では西郷軍との兵力差はないと判断している。乃木希典少佐が率いる第十四連隊は第三大隊は兵士484人を擁し、西郷軍を400人と見ていたからである。ただし、勝敗を決するものは「其士気の振否如何、用兵術の敏鈍如何に在らざる可からず」(『西南記伝 中巻一』)とし、高い士気と戦法が必要とみていた。ところが、政府軍は峠越えなど移動が強行で足を痛める者が続出したことや、一部中隊が予定地に至らず、実際の兵力は半数ほどであったとされる。 2月22日、向坂において両軍は交戦。政府軍は、倍以上の兵力で向かってくる西郷軍に敗れ、退却した。このとき、連隊旗を持っていた河原林少尉が戦死し、連隊旗を西郷軍に奪われてしまったとされるエピソードは、後に乃木が明治天皇の薨去に際し殉死したことと絡めてよく取り上げられる。 2月23日、木葉において追撃する西郷軍を防戦。25日には高瀬において交戦し、政府軍は高瀬を奪回した。西郷軍は伊倉まで後退している。26日、伊倉・寺田において政府軍は西郷軍を破り、田原坂に進出した。しかし、日没により高瀬まで後退せざるを得なかった。田原坂では、西郷軍が迎撃の準備を整えていたからである。27日には、再度高瀬で交戦したが、政府軍は高瀬を守り、西郷軍は後退したものの山鹿・田原・伊倉(吉次峠)の三陣地を占領した。この間の戦いは、お互いの守備地の奪い合いという形であった。政府軍の記録には「高瀬口ノ苦戦ハ寡兵ノ故ナリ、大挙合撃ヲ要ス、願ハクハ速ニ近衛兵ヲ発シ野津ノ兵ニ加ヘラレヨト」(参謀本部陸軍部編纂課編『征西戦記稿 上』)と書かれており、政府軍が劣勢な兵力で戦わざるを得なかった状況をよく示している。 2月27日に伊倉に退いた西郷軍側の河東祐五郎(種子島西之表士族)は、寺院に休泊した。寝るときは、下に麦わらを敷き上に畳をのせてもぐり込んだが、「堅氷指を墜さんばかりの厳冬なれば苦寒肌に砭して通宵眠り得ること能はさりき」(「丁丑弾雨日記」)と書いている。非常に寒く、寝ることもままならなかったのである。西南戦争は、寒さとの戦いでもあった。 高瀬の戦いでは、西郷隆盛の弟で一番大隊一番小隊長の小兵衛が戦死した。この時の様子を河東祐五郎は「此戦我小隊長西郷小兵衛、戦況を視んとて堤上に上りしが忽ち弾に中つて死す」(「丁丑弾雨日記」)と記した。「敵弾の為に胸を貫かれて之に死し」「西南記伝 中巻」)と、胸を打ち抜かれて死亡したという記述もある。このとき、小兵衛を可愛がっていた兄隆盛の喪失感とともに、西郷軍内で戦略の転換を提案した小兵衛の死は、その後の戦いに影響を与えたことは想像に難くない。 さて、植木における最大のポイントとなっていたのは田原坂である。西郷軍は熊本城(鎮台)攻略のため、政府軍が熊本城と連絡するのを阻止することが最大の課題となっていた。高瀬の政府軍が熊本城へ向かうには、半高山近くの吉次峠か田原坂を越えて植木に向かう道しかない。そして、政府軍は兵を二つに分け、田原坂越え(木葉~植木)と吉次峠越(伊倉~吉次峠~小窪)へと進み、熊本で合流するという選択をした。 田原坂は麓から険しい勾配を経てゆるやかな坂になっていく「一の坂」「二の坂」「三の坂」をのぼり平坦地(頂上)に至る。西郷軍は頂上に強固な陣地を築き、政府軍を迎え撃つ態勢を整えていた。 3月4日、政府軍は田原坂において、総攻撃を開始した。このときの戦いは「砲声銃響、天を動し地に震ふ」(「西南記伝 中巻」)ほどであった。政府軍の野津少将は進撃ラッパを吹いて三面から一斉に西郷軍の保塁に迫ったが、「薩軍益す火力を熾にし、之に向ふもの皆斃れざるはなし」(「西南記伝 中巻」)という状況であった。両軍とも多数の死傷者を出したが、西郷軍の守りは堅く政府軍は二俣まで撤退せざるを得なかった。 【参考・引用文献等】 *小川原正道『西南戦争』中央公論新社、2007年 *黒龍会本部編『西南記伝 中巻一』黒龍会本部、1909年 *「丁丑弾雨日記」(『鹿児島県史料 西南戦争第三巻』1980年 |
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2011-07-29 更新 | ||||||
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