ミテンの本棚 > みやざきの近代を読む | ||||||
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![]() 計1,340名が出兵した旧飫肥藩の次に動いたのは、鹿児島藩を宗藩とした旧佐土原藩であった。宮崎支庁詰の役人だった小松秀発は、「是、我国家に報効すべきの秋(とき)なり」と言い、長倉訒に伝えて官を辞して広瀬に帰り、師である島津啓次郎に会う。 啓次郎は最後の藩主島津忠寛の三男で、藩費留学生としてアメリカに渡り、帰国後佐土原で”自立社”をつくり読書や講論を行った。さらに私塾晑文黌を設立。志を持つ若者の育成に励もうとしていた。 小松は島津啓次郎に詳細を伝え、ともに自立社へ行き皆と議論した。最終的には啓次郎の裁断で、兵をととのえて詳報を待つこととなった。その後、詳報が届く前に出兵することになり、一番隊90名が2月9日に出発し、13日には大山県令と面会した。さらに靍田六郎率いる二番隊が14日に鹿児島に到着した。最終的に、佐土原からは士族713名、農兵300名の計1,313名が出兵した。 旧延岡藩では、2月8日に宮崎支庁の藁谷英孝から塚本長民と大島味膳宛に書簡が届いた。飫肥・佐土原では士族たちが出兵に対して意気があがっているので、延岡士族の出兵を促したいという内容であったが、塚本が慎重論を唱えた。藁谷は延岡へ帰る大和田伝蔵に意向を伝えたため、衆議の上出兵することとなった。実地調査を行っていた池内成賢らは鹿児島県庁から冷たいあしらいを受け、本隊への同行は叶わなかったため、一時は出兵見合わせの声も出たが、延岡士族の士気惰弱であると見られるのは心外であるとして、飫肥小隊とともに延岡から高千穂口を通って熊本へ出ることとなり、大島景保を小隊長とする130余名が2月23日に出発した。延岡からは士族556名、農兵840名の計1,396名が出兵している。 旧高鍋藩には、2月10日に宮崎支庁詰の県官から大山県令の内報がもたらされた。士族による衆議の結果、石井卓己、黒水長慥らが鹿児島の動静を調査して、報告にもとづいて決めることになった。ところが鹿児島県庁では、私学校徒のほか随行は認めないと突っぱねられ、高鍋は出兵しないことを決めた。3月に入ると、鹿児島から貴島清が宮崎入りし、兵を出さない高鍋を軍事力で蹂躙するという噂が流れ、実際貴島は桐野利秋の募兵依頼文を持っていたため、高鍋の孤立を恐れて200余人が2小隊に編成された。最終的に旧高鍋藩からは士族300名、農兵700名の計1,070名が出兵している。 これらの日向四藩本隊に加えて、坂田諸潔率いる旧高鍋藩福島隊(計314名)、竜岡資時を隊長とした旧鹿児島藩都城隊(1,580名)、さらに人数は不明だが、貴島の募兵に応じた高岡、綾、穆佐、倉岡で編成した七番小隊(旧鹿児島藩)が出兵したのである。 旧日向諸藩と諸県郡域からは主に西郷軍に兵を送り出した。野口氏は、各地域の対応について共通に言えることとして「県の意向を確かめた上で、また県の指示を待って進退を決めようと、それぞれ別個に代表者を鹿児島に送り、県官からは佐土原の場合を除き、県の与り知るところでないと体よく逃げを張られ、私学校本営では部外者として門前払いをくっている。」として、「永い間培われて来た弱小藩依存主義の明治版と見ることも出来よう」と切って捨てている。「弱小藩」の集まりであり、前年に鹿児島県に吸収合併されたばかりであったが故の日和見主義と県への依存度の高さが、戦時下において表出したといえるのかもしれない。そのことは、本隊への随行が認められず、諸県郡の都城隊ですら党薩隊として扱われ、戦費自弁で臨まなければならなかったことに表れている。私学校徒中心の西郷軍本隊が旧日向国の人々を軽視していたと見ることもできよう。 こうして、明治10年(1877)2月以降西南戦争が展開する中で、日向国からは主に6隊6,800人余が西郷軍側について戦った。さらに、古垣俊雄、谷村計介、松田兼一ら官軍側にあった者たちも約30名いたという。 西南戦争は、同郷者同士が相まみえる戦いでもあったのである。 ※兵員数は『宮崎県史 通史編近・現代1』表2-3「日向国の党薩隊」(295頁)参照 【参考文献等】 *小川原正道『西南戦争』中央公論新社、2007年 *野口逸三郎「西南の役と日向人」(『宮崎県地方史研究紀要 第四輯』宮崎県立図書館、1978年) *『宮崎県史 通史編近・現代1』宮崎県、2000年 |
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2010-10-04 更新 | ||||||
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