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みやざきの近代を読む
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No.10 明治時代はじめの宮崎2 ~美々津県のあれこれ
籾木郁朗 ( 宮崎県地域史研究会 )
【美々津県】
 なぜ”美々津県”なのか? という質問をときどき受ける。実は県名に”美々津”がついた理由はいまだにわかっていない。なぜ、美々津に県庁が置かれることになったのかもわからない。県名は、全国的に郡名や郷名をつけるところが多かったから、県北部では中央に名の知られた”美々津郷”が採用されたのではないかとか、場所としては美々津が県域海岸線の真ん中あたりに位置するからだとか、いろいろなことが考えられる。
 人口20万人余のうち旧延岡県が12万9千人余もある。戸数も旧延岡県が多くほぼ7割を占める。延岡に県庁が置かれなかったことは不思議だが、旧藩同士のあつれきを避けるためだったのかもしれない。美々津県庁は、置県翌年の明治5年富高に移転する。事務所が手狭であるという理由だが、高鍋藩領であった美々津から、旧藩の影響が少ない旧幕府領の富高に移転したとも想像できるのだ。

 なぜ”美々津”かという疑問に答えられる史料はまだ見つかっていない。

 さて、明治4年11月14日に置かれた美々津県の初代参事(現在の知事)は橋口兼三(はしぐちけんぞう)である。当時の地方長官職は、廃藩置県後に定められた府県官制にもとづいて官位によって定められ任命されていた。現在のような選挙で選ばれたのではない。官位の順に知事・権知事・参事・権参事が府県に置かれ、規模の小さい美々津県はトップに参事が置かれたのである。
橋口兼三は、文政11年(1828)7月鹿児島に生まれた。司法省の在任が長く、西南戦争時には官軍側で鹿児島臨時裁判所出張を命ぜられた人物である(国立公文書館蔵「職務進達・元老院 勅奏任官履歴原書」明治二十三年十月)。しかし、美々津県初代参事に任命されたものの、同年十二月十七日に罷免され司法省七等出仕(奏任官)となった(『明治史料顕要職務補任録』柏書房、一九六七年)。わずか一か月しか在任しなかったのである。それどころか橋口には美々津県に赴任した記録がない。
 史料を探してみると面白い事実がわかった。鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「吉田清成文書」に西郷隆盛から吉田清成に送った人事に関する書状がある。これに橋口のことが書いてあるのだ。橋口は、参事に任命されたもののやっていく自信がない、自分は司法畑だから司法関係の役人にして欲しいと西郷に頼んだらしい。西郷は橋口の参事任命に関わった薩摩出身の吉田清成(よしだきよなり)に手紙を書いて、「不長所を以事を誤候而ハ、却而恐懼之仕合ニ御座候」と述べ、不得意な者にそのまま参事という大事な仕事をさせれば、かえって県政は混乱し恐ろしい事態になると、橋口参事を代えるよう依頼したのだ。現在では考えられないことであり、能力を見極めて登用する適材適所というのは大事だと知らされる。

 橋口に代わって2代参事となったのは福山健偉(ふくやまたけひろ)である。西郷の考えは同じ薩摩の伊地知正治を参事にしようとしていたことが書状から読み取れる(「吉田清成文書」鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)。後に国立銀行の頭取となる福山が就任したのは伊地知の病、福山が財政に明るいところが買われるなど、諸事情があってのことだろう。福山と西郷の接点は、西郷が沖永良部島に流罪となっていた頃にあるという話が残っているが定かではない。むしろ、福山は大久保との関係が深かったともいわれる。いずれにしても、福山が就任してから具体的な美々津県政が動き始めることになる。

 美々津県庁は手狭であった。県庁内四課の事務を取扱うのに混雑し、県庁を別に建設しようにも、美々津は全体が浦町なので土地が狭く、商家や漁家が軒を並べて密集しており、庁舎どころか県官員の居宅を構える余地もない。また、用水など不便な面が多く、とても人々が多く集まり、庁下の雰囲気は出ないだろうと理由を述べ、土地も広く県庁や官宅を建てる土地があり細島港に近い富高村に県庁を移転したいという願いを出した(宮崎県庁文書「諸願伺届留」<『日向市史 史料編美々津県庁文書Ⅰ』平成十五年所収>)。このとき県名を臼杵県と変更することも検討したようだが、断念している。
 明治5年6月20日に権参事吉沢直行をはじめとする官員たちは富高へ移る。富高の旧陣屋跡に修復を加えて仮庁舎として移転したのである(宮崎県庁文書「美々津県日記」<『日向市史 史料編美々津県庁文書Ⅰ』平成十五年所収>)。福山らは、八月五日大蔵省に対して県庁の営築願を図面入りで提出した(国立公文書館蔵「公文録」明治五年、第二十二巻、壬申十月、大蔵省伺二)。新県庁舎の建築と移転を願い出ているのである。しかし、新県庁舎は建てられなかった。財政的な問題とともに、九州内の廃県問題と絡めて、県庁の新設が見送られたのである。

(この項つづく)

写真提供:日向市立図書館長 黒木豊氏
2008-09-12 更新
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