ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 円南寺は伊東満所像を祀る。満所は天正遣欧使節に選ばれ、1585年バチカンで教皇グレゴリ-13世に謁見した。満所の父親は伊東祐青(すけはる)、母は町ノ上。町ノ上は歓虎丸の妹、飫肥初代藩主祐兵の姉。 満所像について、町ノ上は満所の遣欧での無事帰還を祈願して影像を造立し、飫肥長持寺に奉納していたが、キリシタン弾圧が厳しくなるなか像を炭俵に入れ、木炭運送に偽装し、密かに長持寺末円南寺に運び込んだ。円南寺は元もと標高500mの斟鉢山頂上の東、地元で東斟鉢と呼ぶ霊山(りょうせん)を少し下った観音平にあったといい、山上の円南寺は宮崎平野が一望できることから見張所を兼ね、変事が起きると早急に飫肥へ連絡できる隠し道が通じていて、像はこの隠し道で運ばれたと伝える(『木花郷土誌』)。 ![]() 町ノ上は伊東氏15代義祐の4女、兄に歓虎丸と義益、弟に飫肥初代藩主となる祐兵がいる。義祐のとき日向国内に四八城を有し伊東氏全盛期であったが、傲慢で傍若無人の振る舞いは配下武将の人心が離れ、宿敵島津氏の巧妙な離反策もあり、島津勢との前線を任せられた諸県諸将らの離反や謀叛が相次いだ。天正5年(1577)義祐は島津勢と一戦も交えないまま、義益正室の縁から豊後大友氏を頼って逃走、都於郡伊東氏は滅びた。 町ノ上は夫祐青、後に伊東満所となる虎千代麿など4児と共に豊後へ遁れた。家族はキリシタンの洗礼を受け、満所は遣欧使節の一人に選ばれ天正10年2月長崎を出帆した。他方伊東祐兵は天正15年豊臣秀吉の島津制圧に功があったと飫肥(宮崎県)を与えられた。 町ノ上は「天正十六年飫肥帰国の後、満所の無事を祈って菩提寺長持寺に、満所の木像を彫らせ安置した」(『稿本伊東崩物語』)、満所が「長途の旅に出発して以来、(町ノ上は)臼杵から飫肥に帰っていたが、満所の航海の無事を祈りつゞけ、城下の大寺院長持寺に満所の木像を祀って、その体内に願文と黄金作りの九寸五分の守り刀を納め、朝に夕に祈願をこめてその無事を祈っていた」(『都於郡史談』)とあるが、九寸五分の黄金の守り刀など如何にも真実らしく記述さてあるが、両著とも出典の明示がなく直ちに信じることは難しい。 参考資料 『木花郷土誌』財団法人木花振興会 昭和五十五年 大町三男『史跡で綴る都於郡伊東興亡史』私家版 昭和五十九年 大町三男『都於郡史談』私家版 昭和五十六年 大町三男『稿本伊東崩物語』私家版 |
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2021-07-27 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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