ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 高鍋藩は飫肥と佐土原の藩主が通行する。領内に大小の河川がありこれらの渡河を援ける近隣の者たちが終日これに関わり難義することから一定の決まりを定めた。 宝暦6年(1756)8月14日の記録(『宮崎県史料第二巻高鍋藩拾遺本藩実録』)。 「御隣家様御通行の節、川々出船ならびに人足員数を定」めている。御隣家様とは佐土原藩と飫肥藩のこと。先ず藩内最大の河川小丸川について、川が満水のとき御座船一艘と小舟三艘は御馳走として無料、それ以上要望する場合は舟1艘についていくらと決め有料とした。干水で陸渡しのときは御座舟1艘だけを御馳走とした。 川南と都農の境、名貫川では満水時人足80人、中水時40人、干水時15人、心見川(都農町)と石並川(美々津)は出水のとき人足を提供した。これら人足は百姓が充てられ労働奉仕であったと推察される。 飫肥藩の参勤交代供奉人数は弘化4年(1847)のとき300人余(『六鄰荘日誌』)、この人数を渡すのであるから結構人手と川舟が必要であった。 江戸時代、川を渡る場合浅い所を歩いて渡ることが普通であった。しかし冬季は足が冷たいので丸木が架けてあった。大きい川は渡し船(有料)で渡った。 万延2年(1861)1月、七折(日之影町)の甲斐源吉一行7人は陸路中国路を歩いて伊勢参宮している。岡山城下手前で渡し船を利用21文(約700円)、翌日も渡し船に乗り16文(約530円)を支払っている。日向国内での渡し賃はどうか。明治12年(1879)3月、高岡の松浦徳右衛門一行4人が伊勢参宮している。時代が違うが参考として示すと佐土原の一ツ瀬川は現在の価値に換算して約700円、美々津の耳川が約350円、北川の熊田川が300円であった。渡し賃が場所によって異なるが、これは川幅や利用人数多少によるものと思われる。 |
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2012-03-27 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長 現在、宮崎県民俗学会副会長、清武町史執筆員 ![]() 『鵜戸まいりの道』(私家版) 『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社) 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史 民俗編』 『北浦町史』 『日向市史』 『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店) 『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社) |
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