ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 「造作五逆罪 常念地蔵尊 天文己酉十八年十一月十六日」 「遊戯諸地獄 大悲代受苦 本願朝遍幷一結衆敬白」 「五逆の罪をつくるとも常に地蔵尊を念ずれば、地蔵は諸地獄を遊戯して大悲心は衆生に代って苦しみをうける」(甲斐常興氏)という意味。天文18年(1549)に戦死した敵方(伊東氏)将兵300余人の霊を弔うために飫肥を領有していた島津氏が建てた。この碑は昭和9年国指定史跡に指定されている。 日向国に覇権をもつ伊東氏と薩摩島津氏は飫肥(日南市)を領有せんと永年争った。島津氏は薩摩・大隅から日向諸県を領有し、長禄2年(1458)島津族将新納忠続を飫肥に、伊作久逸を櫛間(串間市)に封じて伊東氏の南下に備えたが、新納と伊作は仲が悪く兵を構えることになった。 ![]() 祐国の孫義祐が領主となると南大隅の肝付氏と結合し飫肥を攻略しようと策略、再び飫肥進攻を実行に移した。義祐は瀬平(日南市)に陣地を築き、烏帽子峠(鵜戸)を陥れ、水の尾、鬼ヶ城(東郷)、郷之原(北郷)をくだし、南の目井城(南郷)を攻略、天文16年(1547)には飫肥城を眼下に見下ろす要害地中ノ尾に砦を築いた。 天文18年(1549)3月、義祐は飫肥城を攻略せんと伊東治部少輔らの手勢を中ノ尾砦に籠らせた。飫肥城主島津忠広は薩摩の太守島津貴久に援軍を求め、貴久の命を受けた伊集院忠明の軍勢が同年4月2日中ノ尾山頂の砦を攻め上がった。両軍必死の攻防が展開されたが伊東軍は死者200人(『日向記』)をだして敗退した。碑はこのときの敵方の戦死者を供養したもの。 その後、伊東氏と島津氏の飫肥をめぐる攻防は繰り返し、永禄11年島津忠親が伊東氏に飫肥城を明け渡して、83年亘る攻防に終わりをつげ飫肥は伊東氏の手になった。義祐は二男祐兵を城主としたが天正5年(1577)島津氏に敗れた伊東氏が豊後に逃れたあと再び飫肥は島津領となり、天正15年豊臣秀吉の島津征伐後、飫肥は伊東祐兵に与えられ明治まで伊東氏が飫肥を治めた。 参考資料:甲斐常興『宮崎県地方史研究紀要第二十輯~中ノ尾敵方供養塔とその怨親平等思想』宮崎県立図書館、『日南市史』日南市、『石が語るふるさと』宮崎県教職員互助会 |
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2018-05-22 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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