ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 事の起こりは仇討三日前の24日、この年は旱魃で村々では祈雨の踊り、都於郡ではこの日奉射があり、祭り後の直会で都於郡の足軽田中三左衛門は酒を大いに飲み、更に別な所でも飲み酩酊状態であった。この三左衛門は年28、身丈6尺(約180cm)の大男で古流棒術の奥義を修めていた。この男は飲むと酔狂しこれまで乱暴狼藉を度々行っていた。 三左衛門は渡師家に立寄るが、休左衛門らが留守で隠居の父九郎二が応対した。ところが三左衛門は九郎二の言葉が気に入らぬと言いがかりをつけ、激昂の末九郎二を斬った。兄弟の母親サトは隣室にいたが、驚いて逃げ出した。三左衛門は母親も追いかけて斬ろうとするが、サトは気丈な女で無我夢中で三左衛門に組みついた。三左衛門は柱に押しつけて斬ろうとしたが、手元が狂って刀を柱に突き立ててしまい抜こうと焦っている中、サトは刀を捻じ取った。三左衛門は敵わないと逃げ出したのを、サトは追いかけ二太刀三太刀斬りつけた。三左衛門が庭に倒れたのを見て、サトは隣家に走り込んで、夫が殺されたことを知らせて帰って見ると、三左衛門は逃れて、林を抜け溝を越えようとして再び倒れた。サトはこれを斬ろうとしたが、思い留まり息子たちが帰るのを待った。知らせを得て兄弟は馳せ帰り、藩の許可をとり尋常に勝負することを話し合い、三左衛門は家に帰らせ奪い取った刀も戻し、即日仇討願いを藩に提出した。 翌25日、兄弟は父親の葬式を済ませた。 三左衛門は返り討ちせんものと兄伝兵衛と策を練った。まず肩の傷が重傷であるかのように見せかけ、刀は割鞘に拵えて不意をついて腕の立つ弟休兵衛を倒し、続いて兄を倒すというものであった。 25日藩庁は検使2人を都於郡に遣わし、渡師と田中両家の当人、親族を召喚して上意を達した。 ![]() 其の旨承知奉る可く候。左候て近き親類たりとも、助太刀は勿論、以後遺恨に相い含み候に於いては、一門中に其の科仰せ付けらる可くとの上意なり 仇討の場所は田中三左衛門の屋敷、屋敷には二重の虎落(もがり)を結んで桟敷を設けた。検使や諸吏がこれに詰めた。その事が知れて老若男女が詰めかけた。渡師兄弟が名乗りをあぐるや否や三左衛門は飛鳥の如く跳んで、休兵衛の額めがけて斬り込んだ。休兵衛は素早く刀を抜いて受け流し、肩先のニ三寸を斬られたが、返す刀で三左衛門の首筋を払った。しかし深くは斬れなかった。兄休左衛門が三左衛門の左脇腹を斬り、三左衛門がひるむところを休兵衛が跳び上がって肩を斬り、三左衛門が倒れるところを飛び込んで首を打ち落した。 藩庁は休左衛門の家格を中小姓に上げ物成米3俵を加増し、母サトには永代一人扶持、休兵衛には一家を創立して歩行に列し、知行5石を下賜した。その上何れも居邸を都於郡から城下に移すなど褒美を与えた。 ※近世の都於郡町;佐土原城下、妻町と共に佐土原藩3ヵ町の1つ。藩の重要な外城で家老または家老格の者が掛持地頭として支配を任じられた。武士は中小姓8人、歩行37人、小頭26人、足軽76人が配置された。 資料:桑原節次『佐土原藩史 第二節渡師兄弟の復讐』 『角川日本地名大辞典・宮崎県』角川書店 |
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2020-07-28 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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