ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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薩摩藩は一向宗(浄土真宗)の信仰を禁止するが、領民は集落から離れた山中の洞とか土蔵の二階などに集まり、密かに念仏を唱え信仰を深めた。発覚すると重い処罰が科せられ、年に何人かは死罪となった。 長崎や天草などに禁制であったキリスト教を密かに信仰する人々がいた。この信者たちを「隠れキリシタン」と言うことから、禁制の一向宗を信じる人々を隠れキリシタンに擬(なぞら)えて「かくれ念仏」と言った。 宗門改め、一向宗門徒の摘発、糾明、拷問、刑死などにも関わらず一向宗門徒はなぜ地下に潜って信仰を続けたのか。 天台宗や真言宗、禅宗などは、自分で修めた善行功徳をめぐらせて悟りを得ようと努力する、つまり自力修行を旨とする宗派で貴族社会や武士階級に信仰されたが、庶民には難しい教義より名号「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで極楽浄土へ行けると教える、すなわち他力によって極楽往生を求める一向宗(浄土真宗)や浄土宗などが庶民に受け入れられた。 7世紀はじめ浄土信仰が中国から伝えられ、奈良時代には浄土教の理解も深まり、平安時代になると天台の浄土教が盛行、鎌倉時代に入ると法然が浄土宗を開創し、その弟子親鸞が浄土真宗の祖となり、一遍は全国を巡歴し念仏をすすめる時宗(遊行宗)を開いた。 名号を唱えて阿弥陀仏の浄土に往生を願う教えは、浄土宗や時宗、浄土真宗も同じである。日向国の薩摩領内には浄土宗寺院や時宗寺院はあり信仰は自由であった。 なぜ、禁制の浄土真宗つまり一向宗なのか。 本願寺中興の祖と称えらるほどに布教を導いた蓮如は、荘園制の崩壊に応じて急速に発達してきた郷村制の農村社会を組織しつつ、「講」を基盤に、親鸞の教学をあらゆる階層の人々に受け入れられるようなかたちで、日常語を用いて平易に説き明かした。蓮如が求めた講は狭義の宗教的結社の域をこえて、農民の自治単位としての性格をもつようになり、やがて一向一揆の強力な組織基盤となっていった。反体制的な様相を帯びた一揆的動力が現出するにいたったのも、親鸞が説き蓮如へと受け継がれてきた他力信心の立場、平等思想に支えられた同朋精神が基底を支えていたといわれる。 室町末期、越前(福井県)や加賀(石川県)、三河(愛知県)、近畿で一向宗門徒や僧侶らは、戦国大名に反抗し一揆を起こした。文明六年(一四七四)の一向一揆では加賀国の守護代が戦死し、一向宗門徒が一〇〇年近く加賀国を治め、永禄六年(一五六三)三河で起きた一向一揆では徳川家康が激戦の末漸く鎮めている。石山本願寺の一揆は戦国時代の覇者織田信長を十一年に亘って苦しめ、条件つきで講和している。この石山本願寺一揆以降一向一揆は起きないが、一向宗門徒が反体制の行動をとることから領主や大名などは大いに警戒した。 |
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2022-03-23 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員 【著書】 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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