ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 年行事乗信院 乗信院は粟野名字無鹿(延岡市)にあった。照明山光輪寺といい京都聖護院の直末、若王子霞下、大阿闍梨明王院永尊を初代とし開基は元和4年(1618)といわれる。 寛文13年(1673)、3代永勝のとき日向国の臼杵、児湯、那珂、宮崎の四郡内山伏の発頭、正大年行事法印に任じられ以後歴代乗信院を名乗った。 本山派では、年行事は郡単位で霞内の同行を支配するものと定められており、日向国五郡の内諸県郡を除く四郡の山伏を配下に置くことになったが、児湯、那珂郡内の山伏は当山派で本山派はいなかった。 光輪寺には鎮守大将軍社をはじめ妻屋大明神、護摩堂、仏殿があった。(※7) 無鹿の乗信院跡には大将軍神社が建立されているが、境内にある説明板には乗信院に関する記述はなく地元での伝承は絶えていた。 乗信院配下山伏 (文政2年) 普白院、宝玉院、岩本院、金剛院、普明院、明珠院、松林院、義順房(粟野名村) 毘沙門院(岡富村) 大宝房(恒富村) 大祥院(稲葉崎村) 金剛院(川内名村) 花厳院(古江村) 宝満院(南方村) 乗信院 − 大光院、宝光院、仙了房(北方村) 真実院(門川村) 密蔵院(三須村) 顕光房(神門村) 明学院(黒木村) 知禅院(高千穂山裏村) 修善院(高千穂下野村) 善寿院(宮崎郡瓜生野村) 善光院(宮崎郡大塚村) の25か院であった。(※8) ![]() 権大僧都金剛院は川内名村(延岡市北川町)に生まれ、初代宝玉院、2代金剛院、3代三蔵院と続いた修験の家柄であった。 寛政5年(1793)川内名永代の修験宝玉院の一子として生まれ、俗名を金丸峯治といった。8歳のとき真法院に弟子入りして修行を行い得度して峯之坊を名乗った。文化元年(1804)12歳のとき寒中水行を行い、同4年一日米一合で250日の行を実行、その内75日は塩断ちの修行であった。文化5年には延岡藩の修験霊山である行縢山の窟に参籠、七日七夜の断食行を行い、さらに文政元年(1818)には大峯山入峯修行し金剛院真祐を名乗った。30歳のとき諸所霊山に参籠、可愛岳(北川町)で七日七夜の断食行を数度行い、高鍋山伏の聖地である児湯郡尾鈴山(都農町)でも七日七夜の断食行を行った。さらに修験の山として名高い英彦山(福岡県)や求菩提山(大分県)、尺間山(佐伯市)で断食修行を行い、帰邑して延岡愛宕山などでも断食修行を実行した。 嘉永6年(1853)熊田の岩山(旧北川町役場の100m程北の山)を長友源助から譲り受け、そこに大峯山遥拝行場とし護摩堂を建てた。 慶応2年(1866)4月8日時勢不穏を察し、四海泰平、国家安全、藩主の武運長久などの誓願をたて、熊田の大峯山遥拝行場に於いて入定行に入った。5月12日延岡藩は寺社奉行や乗信院を派遣して行中止にかかったが翌13日絶命した。(※11) 脚注 ※7※8内藤家文書「修験中官位書上」辰九月(明治元年か) 明治大学所蔵 ※11「金剛院修験修行一代記」宮崎県立図書館 参考資料 前田博仁著『近世日向の修験道』鉱脈社 |
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2019-12-24 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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