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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.67 稲津掃部助と死を共にした妻雪江
前 田 博 仁 ( 宮崎県民俗学会副会長 )

 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が関ヶ原で天下分け目の決戦をしたことはよく知られているが、この時宮崎でも戦があったことは余り知られていない。
 日向国の高橋元種(延岡)・秋月種長(高鍋)・島津豊久(佐土原)・伊東祐兵(飫肥)と薩摩の島津義弘らは三成側であったが、祐兵は徳川側について伊東家の安泰を図ろうと病気を理由に出陣しなかった。
 関ヶ原戦の前、7月20日に伊東祐兵は豊前(大分県)の黒田官兵衛に書状を送り、徳川軍につくことを告げ、官兵衛は祐兵が関ヶ原戦に加わるより帰国して高橋・秋月・島津など西軍の城を攻める方がよいと勧めた。
 飫肥では協議の結果、清武城代の稲津掃部助を主将として高橋氏の重臣、権藤種盛が守る宮崎城を攻めることにした。当時、宮崎は延岡領で宮崎城には権藤種盛を守将に武士100余、軽卒雑兵570が配置されていた。
 9月29日、飫肥側は3000余人で攻めることにした。飫肥側は満願寺口など5つの登城口それぞれに300、都合1500人を配置し新月の闇に乗じ一斉に攻めた。夜明け方に城は落ち、権藤をはじめ士卒・雑兵100余が戦死した。
 ところが西軍石田三成側であった延岡高橋氏も東軍徳川側に寝返り、結果的に飫肥と延岡は同志討ちということになった。
 慶長6年8月、徳川家康の命令で伊東氏は宮崎城を延岡に返還するのであるが、飫肥は宮崎城攻めの責任を稲津掃部助に取らせることにした。重臣、山田匡得らが密談、これを松寿院(祐兵妻)に伝えると兼ねてから掃部助を快く思っていなかった松寿院は掃部助誅殺に同意した。若くして重用された掃部助は旧臣らに妬みを持たれていたからである。掃部助に切腹が命じられるがそれに従わず籠城を決意する。しかし城内士卒の多くは藩主に逆らうことはできないと城外に出たことから、最後は僅かな直参の者と切腹した。29歳であった。
 掃部助には雪江という若い妻がいた。雪江は豊後大友家の一族、田北相模守の娘で政成の妹だった。慶長2年(1597)大友家が滅亡し、政成は母妹と共に周防国(山口県)柳井に流浪、それを聞いた祐兵の妻松寿院は使者を遣わして飫肥に招いた。政成の母は祐兵の兄義益(若くして死ぬ)の妻於喜多と姉妹、松寿院には伯母にあたる。その頃、祐兵家臣の川崎大善亮は妻を亡くしていたことから政成の母を後妻にするということになった。当然雪江は大善亮の養女となり掃部助に嫁いだ。歳14,5だったという。
 飫肥では掃部助誅殺が決まり、川崎大善亮は母病気という使者を清武に送り雪江を飫肥に戻そうとしたが、飫肥と清武の中間山仮屋で迎えの者が飫肥帰りの真相を漏らした。雪江は驚きそして泣き、清武に駕籠をかえせと命令するが家来たちは言うことを聞かない。雪江は薙刀の鞘をはらって、「吾が下知に従わざる者は皆斬って捨てん」と怒鳴れば家来たちは為すすべもなく清武に帰した。
 古老の話に「掃部助は雪江に母の許に帰れと勧めるが承知せず、雪江申すことには我女に生まれけれども夫の最後を身捨てて帰る存念はなく死を少しも恐れず。今日打手が押し寄せると聞けば心静かに化粧して掃部助に付添、最後の体いかにも健気(けなげ)なりと、これを聞く人袖をしぼらぬ者は無かりけり」と。(『日向記』『日向纂記』)

 清武城址の近くに掃部助の墓があり、いつ誰が建立したか分からないが、掃部助の戒名を中央にその両脇に妻雪江の戒名と掃部助の俗名、下部に掃部助と死を共にした阿万三平など5名の俗名が刻字されている。実際には稲津杢右衛門など11人が切腹しているが、中でも阿万三平は豪胆で腕の立つ武将で乱入する討手を駆け巡って戦うが、いよいよ最後というとき掃部助妻雪江をはじめ召使の女6人を手に掛け自分も切腹している。三平は正座して合掌する雪江らを次々と斬ったのだろう。
2015-06-23 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長
現在、宮崎県民俗学会副会長、清武町史執筆員、県伝統工芸審議会委員

【著書】
『鵜戸まいりの道』(私家版)
『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社)
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史 民俗編』
『北浦町史』
『日向市史』
『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店)
『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社)
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