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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.20 島津随真院の江戸下り
前 田 博 仁 ( 宮崎県民俗学会副会長 )
 佐土原藩島津随真院も内藤充眞院と同じように江戸を離れることになった。随真院は宗家鹿児島島津斉宣の4女として江戸で生まれ、文化13年(1816)忠徹(ただゆき)に嫁ぎ三男六女をもうけた。天保10年(1839)忠徹が参勤途中草津宿で急死し、随真院を称するようになった。
 文久2年(1862)の参勤交代制度の緩和で佐土原に帰国することになり、そのときの日記が「江戸下り島津随真院道中日記」である。

 文久3年3月8日に江戸を発ち、中山道を下り大坂に着く。さらに陸路、山陽道を経て下関(山口県)へ、そして小倉(福岡県)、山鹿(熊本県)、大口(鹿児島県)と南下し小林(宮崎県)、高岡を経て佐土原へ5月13日に着いている。全行程65日間。充眞院が東海道を下り、大坂からは船で延岡まで帰ったのとは対照的である。
 随真院は道中の日々を簡潔明快に記し、風景や路傍の草花など目にしたものを和歌に詠み心情を映し出している。その数72編。
 「こたびおほやけの仰せもありて、文久三年やよひ初の八日、住み馴れし武蔵野の江戸を立出ける」と書き始めているが、随真院も江戸生まれ江戸育ち、江戸から出たことはなく、内藤充真院と同じ境遇であったのであるが、江戸を離れることへの未練がましい記述は一切ない。でもさすがに江戸を発つときは「武蔵野の春の気しきも今日のみと、見かえる空に霞へだてぞ」と、もう二度と江戸には帰らないであろう惜別の心情を詠んでいる。随真院はこの年63歳、充真院とほぼ同じ年齢である。

 この夜は板橋に泊り、翌9日今日も空晴れ渡り、左右は原うち続き目慣れぬ所も珍しく、えもいわぬ草々の中にすみれたんぽぽみだれ咲くを見て、
 「古里にながめてすてにし花なれど、折めづらしきすみれたんぽぽ」と一句。帰国への不満は感じさせない。 15日軽井沢を発つ。これより野原山道ばかり、霞渡る空の気色はなんとも言いようがない。供の男が右に浅間山見ゆというので、すだれをかかげて仰ぎ見て、
「浅間山聞しもげにとたつ烟り、遠近人も過かてに見ん」と。

 ところで、随真院だが充真院ような供の者が困る言動はなかった。川を渡るとき駕籠を降りて歩いて渡っている。「十三日、本庄を立ち、今日は歩行渡し、船渡し多くかゝす川にては、まやはし城主よりもてなし船出ることなく渡った」とあり、「歩行渡し」は他にもある。また、草津宿ではこの宿で急死した亡き夫への思いを綴っている。
 「二十九日、守山を立行ぬ。今日は永い原街道にて見る所もなく草津へ休う。この宿にて古えつまなりける人、みまかり給いければ、
 「見るにさえ袖ぞしぼるる玉の緒の、はかなく消し宿にといきて」
 これは随真院の夫、佐土原藩第9代藩主島津忠徹(ただゆき)が、天保10年(1839)参勤途中草津宿で病没したことを詠んでいるのである。

 参勤交代の一行は4月7日伏見を発駕、このときから島津忠徹の体調は不良、加療するが同日夜死去した。ここで困ったことは跡継ぎを決めておらず幕府に提出をしていなかったことである。そこで草津宿で発病したことにし、幕府への嫡男忠寛家督相続の手続きを急遽行った。そして、ようやく56日目の6月3日に相続願い受付済の報を得て、島津忠徹が5月26日に死去したという公式発表をした。
 草津本陣での足留めは77日間に及び、藩は草津本陣への謝意として永代米10俵と畳替え料として金3百両を渡したという。
 このときの藩重役たちの困惑と狼狽ぶりが想像される。藩主死去に対する悲しみより、跡継ぎを滞りなく済ませ、御家安泰を最重要にして行動したと推察する。
 夫の死に目に会うことが叶わなかった随真院は、ここで改めて冥福を祈り夫への想いを深めたのであろう。随真院は佐土原着後、江戸の幡随院に埋葬されていた夫の遺骸を佐土原の高月院に移している。余生を佐土原で送ることを決意したからであろう。

 晦日、大津を発ち伏見に着く。朔日は雨で終日静かに休み、京都見物もしないで、翌2日、小雨のなか舟で淀川を下る。大坂では3日から8日まで滞在、この間住吉や天王寺へ参っているが特に珍しい物を見に行ったり美味しい物を食べに行ったりはしていない。「五日、何のふしもなくとまる」「六日、昨日ふに同じくとまる。供の者眼病多く八日迄滞在」と記している。内藤充真院が石山寺や三井寺に参詣したり、大坂では義太夫を見物したりしているのとは随分違っている。
 9日、大坂を発ち陸路中国路を下り25日下関に着く。それから小倉、飯塚、山鹿、日奈久、大口と九州の西側を南下して栗野に着く。

 薩摩藩主の参勤交代では、西目筋といって鹿児島から熊本を経て小倉、それから瀬戸内海を船で大坂というコースをとることが多く、時に鹿児島から高岡、佐土原、細島と陸路で行き、細島から海路大坂という東目筋(日向筋)があった。陸路であれば九州西側の方がいろんな整備がされており都合よくいったのであろう。
 11日、小林(宮崎県)を立って野尻で休む。岩瀬川が増水しており野尻で宿泊。12日、岩瀬川が渡れるということで野尻を出発、途中みるべきものもなく高岡に着く。13日、高岡を立ち六ツ野で休憩する。六ツ野から佐土原領となり迎えの人々が多く来ていた。しばらく行くと水落坂に着く。ここで駕籠を止め暑さをしのぎ暫く休憩する。
 山々晴渡り、田畑の気色詠やり所の名によせて、
 「あつさをもしばしわすれて坂のなの、水落ときくにうるほひけり」
 それより佐土原へ着く。
2011-10-04 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長
現在、宮崎県民俗学会副会長、清武町史執筆員

【著書】
『鵜戸まいりの道』(私家版)
『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社)
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史 民俗編』
『北浦町史』
『日向市史』
『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店)
『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社)
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