ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 飫肥藩は一向宗(浄土真宗)の布教が公認され、城下には本願寺派浄念寺が領内本寺として存在した。浄念寺には法名寺・安心寺・円心寺・大蔵寺(日南市)、宝泉寺・真光寺・長昌寺・明照寺・巌泉寺(宮崎市)、松尾寺・長明寺・安楽寺、妙栄寺(清武町)などの末寺があった。他に一向宗寺院は西教寺(大坂堺慈光寺末・宮崎市)と西導寺(宮崎市田野町) があり、藩内には十六か寺があった。飫肥藩が一向宗信仰を許していたのは藩主伊東氏が和泉国堺の一向宗慈光寺と深い因縁があったからで、天正5年(1577)都於郡の伊東義祐(藩祖伊東祐兵父親)は島津氏に追われて豊後に落ち、その後大坂へ出るが同13年大坂堺で果てている。このとき葬られたのが慈光寺であった。飫肥城下の浄念寺は都城の最勝講と国恩講の取次ぎ寺院であった。 最勝講は女人講(女だけの講)で、門主釈広如の時代に最勝講結成を奨めた文書が存在する。 ![]() 天保三壬辰歳仲秋 竜谷寺務第二十世釈広如 諸国 最勝講中 これは諸国に下付されたとみえ吉松町や高崎町に残っている。最勝講の系統を引くとでもいうべき組織が、薩州内場仏飯講三番組、財部町深川堂園寺や同神埼寺に残っている。 浄念寺が西本願寺に取次いだ文書が『薩摩国諸記』にある。 嘉永三年三月十八日差出言上書 一歎願一冊 右は日向飫肥領酒谷村観知取り次にて、十五、六人申し合、何無く講御取り持ち申し来たり候由、然るに講名これ無きの事、手元歎出候につき、即ち歎願の通り聞き届け置き、右につき以来昨酉年四年(二年カ)に、三歩弐朱だけ上納居り申し候、御印書そのまま差し上げ奉り候間、講名御冥加先納として御通し御下し願い上げ奉り候、尤も御通上番は下され候、日向三ヶ村知恩講と御書下可被下候 奉窺上口上書 日向国飫肥城下浄念寺 黙了 ![]() 寛政10年(1798)薩摩藩は飫肥領内へ密偵を送り聞き込みを行った。 轟木玄林と長倉八兵衛という隠し目付2名を飫肥領内に潜入させた。それによると、薩摩から欠落(逃亡)してきて飫肥領内に住んでいる者は2804人に及び、初めのうち飫肥藩は生活に必要な銭を貸し与えていた。飫肥藩が薩摩から欠落してくる者を受け入れるのは、飫肥藩から薩摩領へ欠落する者が多く、開墾・開拓の労働不足になっていること、その受け入れをする者を俗に欠落奉行と言っており、彼等は欠落してきた者を細島や延岡の者といい、決して薩摩から者とは言わなかった。 薩摩から飫肥領内に逃げ込んできても決して楽な生活ができたわけではないと思われるが、薩摩からの逃亡要因として、薩摩隠し目付の報告に、「欠落の者過半、一向宗執行の者」とあり薩摩からの欠落の過半は一向宗信者であったとと報告している。 |
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2022-08-23 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員(参与)、日南市文化財審議会委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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