ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 『海南小記』の「ひじりの家」によると、龍仙寺を尋ねるが地元民に知っている者がいなく、「内藤家の御祈願所の、随分名の有る法印さん」と尋ねて漸く所在地が分かった。地元の人が寺を知らなかったのには理由があった。明治5年(1872)修験道が廃止され、修験者は神職になるか帰農するかの選択を余儀なくされたが、谷山住職は作州津山(岡山県)のある村の潰れ寺の名籍を買って、それまでの修験寺を真言宗龍仙寺として復立していたのである。修験僧は明実院などのように山伏名で呼ばれることが通常で、修験寺があったとしても寺院名で呼ばれることはなかった。「明実院」と言って所在を尋ねたら地元民はすぐに教えたのであるが、明治になって再興した龍仙寺という寺院名は知らなかったのである。 漸く会えた谷山住職は髪を一寸ほどのばし縞の着物を着た老人であった。谷山家はもともと大和国の武士で、延岡領主土持氏の兵法指南として日向国へ移住してきたという。土持氏が延岡(当時は縣(あがた)と言った)を治めていたのは中世、谷山住職が「日向へ来て十七代になる」と語ることは概ね辻褄があう。世の中が改まった江戸時代、延岡の藩主は高橋・有馬・三浦・牧野・内藤と代わり、五家目の内藤氏が藩主となると「ただの臣下で居る代わりに山伏」になって主君内藤氏の安穏・安泰を祈念することを決めた。 柳田は日向延岡の谷山住職については津軽(青森県)の深浦義観という僧から聞いた。修験派独立運動の初期、東京神田で全国の行者たちが大集会を開催、この所に兜巾鈴懸(ときんすずかけ)いわゆる山伏姿で期成同盟に馳せ参じたのが龍仙寺の法印谷山ただ1人だった。深浦師らは山伏姿での参加理由を尋ねたのであろう。「自分の寺は旧藩公の時代から、この行装で寺禄を食み祈祷を仰せ付かって来た。世間を憚るべき道理は無い」と、立派に言いきったということを深浦師から聞いて、柳田は谷山住職に是非会ってみたいと思った。 ![]() 平成24年(2012)7月、延岡の竜仙寺(現在の寺名)を訪ねた。3月3日延岡の真言宗光明寺で行われた淡島大明神祭の柴燈護摩に参加していた市内真言宗寺院僧に作法を指導していたのが竜仙寺住職であったことを知った。 ※明治五年修験道は廃止され、本山派の修験者は天台宗、当山派の修験者は真言宗に所属させられた。このとき神職や帰農した修験者は多い。第二次大戦後、真言宗醍醐派、本山修験宗、金峯山修験本宗、修験道などの修験教団が相次いで独立し、修験道はふたたび活況を呈している。(『修験道辞典』) ※内藤氏が磐城平(福島県)から延岡に国替えなったのは延享4年(1747)、この頃明実院は武士から修験者になった。 |
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2023-02-28 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会顧問、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員会参与、日南市文化財審議会委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 『神楽のこころを舞いつぐ』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 共著 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史(民俗)』 『北浦町史(民俗)』 『日向市史(民俗)』 『清武町史(民俗)』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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