ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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「一富士二鷹三茄子(ふじたかなすび)」縁起の良い夢、新年の初夢にこれらを見ると縁起が良いという(『広辞苑』)。建久4年(1193)5月、富士野の狩り場で父のかたき工藤祐経を仇討した蘇我兄弟。鷹は赤穂浅野家の家紋をさし、元禄15年(1702)12月、主君の仇吉良義央を討った47人の赤穂浪士。ナスにはイガが密生したヘタがあることから、寛永11年(1634)伊賀越えで義弟の仇討を助太刀した荒木又右衛門の三大仇討(別説あり)をさす。 江戸時代、これらは講談や歌舞伎で演じられ、庶民の絶大な人気を得、大いにもて囃された。 映画全盛期の昭和30年代、毎年正月の上映演目は人気俳優総出の「忠臣蔵」、いわゆる赤穂四十七士の仇討で、観客は筋書きとか結末を知っているのに、わくわくとした気分で映画館へ行った。 日向国佐土原藩で仇討があった。寛政10年(1798)は5月から6月は干ばつが続き、藩内村々では雨乞の祈願が、武士たちも雨乞の奉射(ぶしゃ)が行われた。奉射が終わると奉納された神酒の振る舞いが通例であった。 奉射を行った武士に田中三左衛門という足軽がいた。身丈6尺(180センチ)の大男、しかも古流棒術を修め腕前も確かであった。この男平素から飲酒を好み、酔うと酒乱となる悪癖があり「三左」と呼ばれていた。奉射の神酒を飲み、帰途他家に立ち寄って酒を飲み、渡師休左衛門の家にも寄った。休左衛門は留守で病気で休んでいた父親九郎二が対応したが、酩酊している三左をみて日を改めて来るよう申した。すると三左は激怒し九郎二に斬りつけた。次の間にいた九郎二の妻里は飛び出し必死に三左に取りついた。三左は里を柱に押し付けるが、このとき三左の刀が柱に刺さり、一瞬里は刀を奪い取り、身をかわそうとした三左の背を斬りつけた。逃れようとする三左を2度3度斬りつけ、路上に倒れた三左に止めを刺そうとしたが、息子2人が帰宅してから打果たそうと思い直した。息子2人は藩庁に仇討を願い出て許可され、後日仇討は兄弟によって実行された(『宮崎発掘 史話四題』)。 仇討は渡師兄弟のようにうまくいくとは限らない。殺害人(仇人)はすぐに逃亡し、届け出を済まして後を追うことになる。この間仇討人は公務でない私的なことから停職となり禄は取り上げられ、仇討人の留守家族も無収入となる。仇人がすぐに見つかることは稀、3年かかった例18、4年は56例、17年6例とか中には53年かかった例もある。仇討人は非人や乞食、茶売り、草履取りなどに身を落として跡を追うことになる(『時代考証事典』)。また運よく仇人に出会うが相手の方が腕が上で返り討ちになる者もある。何年も乞食のような生活を続けていると、途中で仇討を諦める者も出てくるのではないか、しかし、仇討を遂げずに帰藩はできず、行方不明になる者もあったのではないだろうか。 甲斐亮典『宮崎発掘 史話四題』鉱脈社 稲垣史生『時代考証事典』新人物往来社 |
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2024-08-27 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、 平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。 現在、宮崎民俗学会会長 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会顧問、(県)伝統工芸品専門委員、 高鍋神楽記録作成調査委員会参与、日南市文化財審議会委員 著書 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』(鉱脈社)、 『比木神楽』(鉱脈社)、 『神楽のこころを舞いつぐ』(鉱脈社)、 他に『鵜戸まいりの道』 『飫肥街道』(鉱脈社) 共著 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史(民俗)』 『北浦町史(民俗)』 『日向市史(民俗)』 『清武町史(民俗)』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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