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みやざき風土記
県総合博物館・県文化課・県立図書館で民俗や文化財、郷土史料等専門的業務に長年従事した専門家が、風土や風俗、伝統芸能、地域史など宮崎の文化を分かりやすく紹介します。
 
No.114 6年2ヶ月かけて日本を巡った野田泉光院(1)
前田 博仁 ( 宮崎県民俗学会副会長 )
野田泉光院
 佐土原藩真言宗安宮寺八代の住職、宝暦5年(1755)長泉院成房を父として佐土原に生まれた。当山派山伏。大先達、阿闍梨の僧位をもち泉光院と称した。名は成亮、俳句をたしなみ俳名楊柳軒一葉を称することもあった。
 56歳のとき諸国の当山派修験見聞役として九州・山陰・北陸・中部・関東・奥羽・東海・近畿と廻り、そのときのことを日記に認めた。それを泉光院より6代の孫杉田直が昭和10年(1935)『日本九峯修行日記』として刊行、全国の主な図書館などに配布したことによって、一躍有名になった佐土原の修験僧である。

野田家
 野田家はもともと薩摩国(鹿児島県)出水庄野田郷を領する武将であったが、永禄4年(1595)7月、肝付兼続討伐のとき島津忠将とともに野田行久(16歳)も戦死した。そこで忠将の子島津以久は母親の甥である庄右衛門に野田家を継がせた。
 佐土原藩初代藩主島津以久が佐土原に入封した後、以久の命で庄右衛門は修験僧となり安宮寺を開山、同寺は佐土原藩主島津氏の祈祷寺として藩から20石を給され、歴代藩主の代参として毎年大峰入峰を行った。泉光院自身を描いた書画幅に「入峰三十七度、奥駈十有」と書いているが、これから類推すると20歳代初めには峰入りや奥駈け修行を行っていたことが分かる。

九峯
 九峯とは英彦山・石鎚山・箕面山・金剛山・大峰山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山で修験霊山を指す。廻った諸国はほぼ全て、廻国していない国を挙げると壱岐・対馬・隠岐・佐渡などの離島と東北の陸奥・陸中それに四国の阿波・讃岐・土佐である。ただ、泉光院が挙げた九峯は誰もが認める九霊山ではなく、泉光院が恣意的に挙げたもので客観的なものではないという。(『日本九峯修行日記』)
 出立する前年藩主の許可を得、安宮寺を息子に継がせて9つの修験霊地を巡る旅に出るが、これは諸国の修験者の実態を見聞する用務も兼ねており本山醍醐寺三宝院の承認を得ていた。供は佐土原の平四郎、出立のとき平四郎35歳で泉光院とは一回りの年の差であった。

無銭旅行
 この日記は当時の日本国内の風俗や庶民の生活がよく分かる。例えば泉光院と平四郎は旅籠などには殆ど泊っておらず行く先々で泊めてくれる家を探す。つまり無銭旅行である。素性の知れない旅人を泊めるということは現在では考えられないが、当時旅人を泊めるのは普通であったとみえ泉光院らが野宿した記録はない。
 出立から7日目、日向国飫肥藩(宮崎県)宮浦で雨に降り込まれ栄吉という家に一夜の宿を依頼、栄吉は出来合いの飯といって食事を出してくれた。旅人に食事を出すということは殆どないことである。雨天のため2晩泊まり翌朝茶代を出すが一銭も受け取らない。2晩も厄介になったので説得し謝礼の包みを渡している。さらに栄吉は近くの川も無銭で渡してくれている。宮浦の前日、内海に泊ったときも「日本廻国行者なれば」と一銭も受け取らず返されている。室津(山口県上関町)でも「廻国行者なればとて米代計り取り木賃は一銭も取らず。是も仏法の有りがたさと感ず」と。
 廻国行者を単なる旅行者とは見ず、ある程度尊敬の眼差しでみる風潮があったのであろうか。同じ日向国でも藩が違えば対応が異なっている。
 高鍋藩福嶋八ヶ谷(串間市)では、役所が旅人を泊めることを厳しく禁止しているということでどこも泊めてくれない。困っていると鬼瓦のような顔つきをした大男が無骨な言葉で、私宅は狭くむさ苦しいが一宿のことだからと言って泊めてくれる。長崎でも同じような状況に出会った。西海に日が沈み雨は頻りに降る中宿を求めるが全て断られる。行く宛ても無く茫然としていると、年齢40ばかりの大男が来て「各々方は何れの国の人ぞ、見れば老僧さぞ難儀ならん、吾々方へ麁宅(そたく)ながら今夜宿参らせんと云ふ、地獄に地蔵に逢ひしもかくあらんと此方へ行く」
 宿が決まると薪などを借りて自炊、これは当時の旅では当たり前のことで、宿に泊まる場合も薪と鍋を貸し出す木賃宿が殆どであった。泉光院と平四郎は托鉢で米や銭を調達した。しかし一向宗や日蓮宗信者の多い所や領主が托鉢を禁止している所は実入りが少なく、そういう所は早々に立ち去っている。尤も街道筋には2食つきの旅籠があったが二人は泊っていない。
 諸国巡拝者や廻国六十六部などを無賃で泊める善根宿とか千人宿があったが、泉光院はそういう所には余り泊っていない。泉光院自身は六部とは違うという意識、六部を天蓋六部と呼びやや見下げているし、当山派修験見聞の命を受けているというプライドがあったからであろう。宿が決まらず六部宿に泊まっているがノミが多くて寝られなかったことを記している。
2013-02-12 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
1942年宮崎市生まれ 宮崎大学学芸学部卒 県内小学校、宮崎県総合博物館、県文化課、県立図書館、宮崎市生目台西小学校校長等歴任、定年退職後きよたけ歴史館館長
現在、宮崎県民俗学会副会長、清武町史執筆員、県伝統工芸審議会委員

【著書】
『鵜戸まいりの道』(私家版)
『歩く感じる江戸時代 飫肥街道』(鉱脈社)
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史 民俗編』
『北浦町史』
『日向市史』
『角川日本地名大辞典 宮崎県』(角川書店)
『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』(平凡社)
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