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みやざき風土記
県総合博物館・県文化課・県立図書館で民俗や文化財、郷土史料等専門的業務に長年従事した専門家が、風土や風俗、伝統芸能、地域史など宮崎の文化を分かりやすく紹介します。
 
No.49 宮崎の関ヶ原戦、稲津掃部助の宮崎城攻め(1)
前田 博仁 ( 宮崎県民俗学会事務局長 )
 NHK大河ドラマ「天地人」は石田三成の西軍側と徳川家康東軍側の関ヶ原合戦というクライマックスを迎えている。このとき東北では上杉景勝(三成側)が仙台伊達氏と山形庄内の最上氏(徳川側)と戦うが、日向宮崎でも飫肥伊東氏(徳川方)が家臣稲津掃部助をして、延岡高橋氏(三成側)の宮崎城や薩摩島津氏(三成側)の穆佐・倉岡城を攻めさせている。

 飫肥では清武城代の稲津掃部助を主将として、高橋氏の家臣権藤種盛が守る宮崎城を攻めることにした。当時、県(延岡)は高橋元種、財部(高鍋)には秋月種長、佐土原は島津豊久、都城や綾、高岡・本庄・八代・倉岡・穆佐は島津氏が領有していた。池内など宮崎の一部は延岡高橋氏の領地(飛び地)であった。宮崎城には権藤種盛を城主に武士百余、軽卒雑兵570が配置されていた。種盛は飫肥勢が宮崎城を攻めるという噂を聞いて、兵糧を運び籠城の準備をするとともに、延岡の重臣へ鉄砲並びに軽卒5、60人の援軍を申し出たが、主君元種は関ヶ原出陣で留守、留守を守る県の家老達は種盛の申し出を断った。理由は多くの将兵が関ヶ原へ出兵しており延岡も手薄であること、飫肥伊東家も関ヶ原では延岡と同じ西軍側であり宮崎城を攻めることは虚言であろうということ、また、もし飫肥の宮崎攻めが本当のことであろうとも、長年主君から宮崎4万石の地頭に任じられ、妻子や同族が安住に暮らしていることができるのは、このような時に知略を尽くして戦うためである、というものであった。
 佐土原・薩摩の島津氏に加勢を頼むことも考えられるが、これは主君を軽蔑することになり権藤種盛は籠城を決めた。

 慶長5年(1600)9月29日(関ヶ原戦は9月15日だったので14日遅れ)、飫肥側は3,000余人で攻めることにした。軍議は稲津掃部助が500の兵で清武城を守り、田野勢7、800は穆佐・木脇の島津勢襲撃に備えて長倉五郎右衛門らが5か所を固め、借屋原甚右衛門は紫波洲崎兵400で佐土原城勢侵攻に備えるというものであった。これは万一、1日で宮崎城が落城しなかった場合、両島津(薩摩・佐土原)が攻めてくることを想定してのことであった。また、攻め落としに手間取ると延岡から援軍が駆けつけることも十分考えられるものでそれに備える意味もあった。

 他方、宮崎城の高橋側は権藤種盛と2人の息子、それに375人の士卒・雑兵であった。種盛はこれらを登城口である満願寺口に96人、船ヶ崎口に60人、目曳口に96人、野頸口や柏田口には遊撃として99人、本丸に24人を配置した。宮崎城には常時700余の士卒が配置されていた筈だから半数は逃亡したのであろう。宮崎城の雑兵には都於郡伊東時代に伊東氏家臣であった者もいたので逃亡者にはそういう者も含まれていたことが考えられる。種盛はこのことも十分承知で、伊東旧家臣であった者は役に立たないだけでなく内輪が崩れるもとになると考えていた。
 伊東勢の一隊は借屋原甚右衛門を主将に、紫波洲崎勢が大淀川の大渡(橘橋辺りか)を渡り奈古山へ兵を進め、申し合わせどおり奈古山に布陣した。先手の大将は右松又左衛門が率いる300余人と肥田木図書助の300余人、二ノ手が矢野侃世の300余、中ノ手は長倉九郎右衛門300余、稲津九郎兵衛300余、合わせて5組1,500余人が攻める事になった。

 安井相右衛門と海老原助之丞は、それぞれ12人の士卒を2組を宮崎城近辺を遊撃し、敵方援軍有無の状況を偵察し合図の火を挙げる役割が与えられた。城兵が強いときは火1つを挙げて伊東勢の出撃を促し、若し両島津の加勢があるときは火2つを挙げ、大塚・大田・中野の狼煙台から飫肥へ知らせる手はずになっていた。
 まず、300の先発が鬨を上げた。これを聞いて宮崎城主権藤は「敵は小勢なり、者ども進め」と下知、これは開門させる稲津側の作戦であった。新月の闇に乗じ満願寺口、目曳口、船ヶ崎口、野頸口、柏田口の五口から一斉に攻めた。安井相右衛門は戦いの最中広原まで出向き、佐土原の動きを探索するが何の動きもなかった。
 権藤兄弟は槍・長刀の達人で攻め来る伊東勢数十人を切り伏せるが、そのうちに権藤父子3人も痛手をうけて詰ノ丸に退き、17人の雑兵とともにいたが皆傷をうけ戦う気力もなく、権藤らは切腹しようとしていた。しかし、競い上ってくる伊東勢は、折り重なって一度に斬りかかり切腹のいとまも無く殺害された。10月朔日夜明け方に落城、権藤父子をはじめ士卒・雑兵百余が戦死した。
掃部助は宮崎城に在城、その外に本城(古城)・細江(生目)・浮田(生目)・起水(不明)・中村(太田)の5か所に陣を張り、穆佐・倉岡などから侵攻してくる薩摩勢に備えた。
 田野の長倉五郎衛門らは、宮崎城が落ちた10月朔日の朝、薩摩領の的野や永倉へ出兵、あちこち放火し穆佐兵と戦って細野に引きあげた。

 折りしも、薩摩の島津義弘は関ヶ原で敗れ、細島(日向市)から高鍋を経て10月朔日佐土原に入り、関ヶ原で討ち死にした豊久の子忠助を励まし、豊久の弟に城を固めるよう指示して八代城に行き、そこから倉岡など警備を厳重にすること、高岡に築城することを命じ紙屋を経て鹿児島へ帰っている。
 義弘主従7騎が六野原(国富町)を通るという情報を得た清武側では、この期に義弘を討とうと色めき立つが矢野侃世はこれを制した。無事帰国した義弘は「伊東家には未だ人(真の武士)が居り候とみえ、我を討たずに通せり」と言ったとか。

 伊東勢が宮崎城を落としたことは鹿児島にすぐ知れ、穆佐・倉岡・綾・八代などの城に軍勢を籠らせ、尼ヵ辻・東長寺の2か所に新たに城を築き兵を置いた。
 新たに設置された尼ヵ辻は高岡の天ヶ城と推察する。尼ヵ辻守将と内山地頭が同一人物であること、尼ヶ城の記載があることなどによる。もう1つの新城東長寺の所在地は三名(国富町)であるが、当時この地は高鍋領であった。他領に新城建設が可能であったのは高鍋秋月種重は延岡高橋元種の実兄であること、島津義弘が関ヶ原から帰国するとき、大坂に人質になっていた秋月氏の正妻を高鍋に送り届けていることなどによると思われる。現に櫛間秋月と都城島津の連合軍が鯛取峠(南郷町)に攻め込んでいるので、両者は同盟関係であったことが窺える。
2009-09-25 更新
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