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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.107 古戦場であった浮橋が有喜橋に
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原(岐阜県)で天下分け目の大戦があった。石田三成の西軍と徳川家康の東軍が戦うのだが、全国の大名は西軍か東軍かどちらかについて戦うことになり、延岡の高橋氏、高鍋の秋月氏、佐土原の島津氏、飫肥の伊東氏それに薩摩の島津氏は西軍につくことを表明していた。しかし、伊東氏は豊後国中津(大分県)の黒田如水の勧めもあり、意を翻して東軍につくことにした。
関ヶ原戦の直前、伊東祐兵は病を患っており、如水は祐兵が大阪に留まって関ヶ原で戦うより、帰国して高橋・秋月・島津など西軍諸侯の城を攻めることを勧めた。
飫肥では協議の結果、清武城代の稲津掃部助(いなづかもんのすけ)を主将として、延岡高橋氏の宮崎城を攻めることにした。
 宮崎城は城主権藤種盛に士卒100余と軽卒雑兵570が配置されていた。種盛は飫肥が宮崎城を攻めるという噂を聞いて、兵糧を蓄え籠城の準備をするとともに、延岡の重臣へ鉄砲ならびに軽卒5、60人の援軍を申し出たが、重臣たちは種盛の申し出を断った。
 理由は主君元種をはじめ多くの将兵が関ヶ原に出兵しており、延岡も手薄であること。飫肥伊東氏も延岡と同じ西軍であるから、宮崎城を攻めるということは虚言だろう。もし、本当であっても種盛は永年殿から宮崎4万石の地頭に任じられており、このようなときこそ知略を尽くして戦え、というものであった。

 関ヶ原戦より14日後の9月29日、伊東勢は清武兵2,300余と飫肥の700余、総勢3,000の兵で攻めることになった。他方、守る種盛らは士卒・雑兵375、通常は700余であったが半数に減っていた。多勢に無勢、圧倒的な兵力の差で翌1日朝、権藤種盛を含め士卒・雑兵100余名が戦死し戦は終わった。しかし、落城で戦の全て終わったわけでなく、掃部助は23年前まで伊東領であった佐土原を奪い返す、他方、島津氏も掃部助が奪った宮崎を薩摩領として拡大する好機という両者の欲望が対立し、7か月に及ぶ小競り合いとなった。

 10月3日、伊東勢は延岡領本庄(国富町)に進撃、島津勢と戦う。
4日には伊東勢が薩摩領穆佐(高岡)を攻め、5日は伊東勢が高鍋領金崎(宮崎市)などに火を放つなど、毎日のように両者は小競り合いを展開した。

 10月18日、掃部助は綾・八代・倉岡の薩摩それに佐土原が結束して宮崎城を攻めるという情報を得た。掃部助は瓜生野に兵を進めそこで島津勢を迎え撃ち勝利した。このとき佐土原勢は宮崎城を攻める役割であったが、瓜生野での島津敗戦を知らずに宮崎城に迫った。
宮崎城は少ない兵で城を守り佐土原勢に鉄砲を撃ちかけ、辛うじて耐えていた。瓜生野から引き返した伊東勢は宮崎城近くの奈古山に旗を立てると、これを見た佐土原兵は帰路を断たれると恐れて退却、伊東勢はそれを追撃し佐土原城下まで攻め込んだ。
伊東兵の多くは民家に乱入して酒食を漁るなど油断していた。佐土原勢はそれに乗じて反撃にうつり、狼狽した伊東勢は退却し、明け方漫々橋(びたびたばし)に追い詰められた。12人が殿(しんがり)となって防戦する間に渡河するが、佐土原の追撃はますます強くなり12人が危うくなるのを見て、6人の武将と20人の兵卒が付近の林に旗を立て、突撃して佐土原勢に反撃した。佐土原勢は伊東の援軍が来たと判断して退却した。この武勇を後に飫肥では「漫々橋の六本槍」と言って誉め称えた。

 漫々橋がある石崎川には戦略上か橋を架けず、筏を連ねて戦などのときは岸に結んだ綱を切り、戦を有利にする橋だった。渡るときワラジや草履が「びちゃびちゃ」と濡れることから漫々橋と言った。また、川に浮いた橋から浮き橋とも言った。

 関ヶ原戦に伴って起きた「宮崎城攻め」は宮崎の歴史では忘れられない史実の一つ、それを「浮き橋」から「有喜橋」に改称するという愚行をした。「喜びがある橋」意味が分からない。歴史を知らない役人の浅知恵、チコちゃんなら「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と怒る場面だ。

 同様な「感じがよい」とか「見た目がよい」漢字に置き換えて地名をかえた話が延岡市にある。浦尻(城)湾の奥まった所に浦尻という地名があった。ところが「浦城」と改称、「尻」を嫌がったのか。地名語源的には「尻」は「上」とか「奥まった」などの意味で使われる。湾つまり浦、その浦の奥まった所である。「浦城」は如何にも城があった所と誤解する。

 西諸県の野尻町、ここも「尻」が付く。野の中央は「野中」、上の方は「野上」、細くなった所は「野首」などいろいろ地名にある。野尻町は町起こしとして「女尻相撲大会」を随分前から行っている。町民の大らかさを感じる。

 再度延岡市の話。須美江町とか須美江湾がある。昔から「須奴江」という地名、当然、江戸時代の古文書はすべて「須奴江」である。昭和32年に「須美江」と改称した。

「喜びのある橋」「尻を城に」「奴を美に」、何の意味があるのか。
2018-10-23 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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