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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.100 海運業を営んだ内海の湯浅倉助
 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 宮崎市南部に内海港がある。大正12年(1923)国鉄日豊本線が開通するまでは宮崎市の玄関として大いに栄えた。江戸時代、内海は飫肥藩。藩内には城下の玄関となる外浦港や油津港(日南市)があり、藩の北境大淀川河口には赤江港、日南海岸の入口に位置する内海港(宮崎市)などがあった。これらの港には藩が育成した廻船業、今でいう海上運輸業を営む商人たちがいた。
 主な商人を挙げると、飫肥城下には河野宗兵衛、服部新兵衛、安藤猪平次など、藩北部大淀川下流右岸に繁栄した商人町城ヶ崎には日高平蔵、南村長兵衛、南村善右衛門など、内海には由浅倉助、平川武兵衛がいた。これら商人たちは1隻ないし2隻の千石船を所有し、材木・櫓木・楫・樽丸・杉板・樟脳・木炭・椎茸など林産物を上方へ運ぶことを生業としていた。飫肥藩は林業が盛んであったことから材木や杉板、樽丸などが主たる交易物で、中でも和船の櫓材である櫓木は上方や江戸で重宝された。
 湯浅倉助は、神徳丸と大得丸という2隻の千石船を所有し、内海港を拠点に専ら木材移出を中心として活動したとみられる。明治初期の内海物産(『日向地誌』)は杉板300坪、白炭2000俵などがみられ、これらも商品として扱ったことは容易に想像できる。

 ちなみに、内海について高山彦九郎は「人家百軒余」と記している。
 湯浅倉助が史資料に登場するのは、我が国最初の日本国実測地図を作製した伊能忠敬の日記で、忠敬一行は現在の延岡市北浦から測量しながら海岸沿いに南下、文化7年(1824)に倉助の家に宿泊している。前日、4月22日は城ヶ崎に止宿、本陣は梅香屋文平の家、脇宿は和泉屋善右衛門の家であった。翌朝、一行は先手・後手の2組に分かれ、八ツ手浜(大淀川河口右岸、宮崎空港飛行場の東端辺り)から測量を始め、郡司分、熊野、折生迫と進み、青島を測量して九ツ過(午後12時過ぎ)内海に着いた。
 内海での宿は本陣が河野治郎左衛門、脇宿が岩田屋倉助の家であった。岩田屋倉助とは湯浅倉助のこと、岩田屋は倉助が経営する海運業の屋号であった。前夜城ヶ崎の脇宿は和泉屋善右衛門の家で、和泉屋は南村善右衛門と思われる。この頃城ヶ崎で海運業を営んでいた人物に南村善右衛門がおり鵜神丸を所持していた。南村家は元もと土佐国南村梅軒(※1)の出身、城ヶ崎に来た南村家初代は和泉国(大阪府西部)から来たといい(『高山彦九郎筑紫日記』)、屋号に和泉屋、俳号の一字に「梅」を使った。伊能忠敬は宿泊所を「和泉屋」とか「岩田屋」など屋号で書いたのである。

 次ぎに登場するのは嘉永5年(1852)、後に飫肥藩家老となる平部嶠南は3年間の大坂勤めを命じられ、10月10日早朝清武を出立、油津港に向かった。凡そ10里の行程、夕方油津に着き船に乗った。船は内海の湯(由)浅倉助所持の神徳丸であった。上方へ行く神徳丸に便乗したのである。
 慶応2年(1866)6月17日、藩は鉄砲購入のため湯浅倉助に長崎へ行くことを命じた。責任者は清二左衛門、船は神徳丸。4か月後の10月19日目的を果たし無事帰帆している。
 明治が間近なこの時期、我が国は世情不安の真っただ中にあった。前年9月に幕府は諸藩に長州征伐を発令、翌年1月薩摩と長州は同盟を結びこれに対抗、6月には長州征伐が始まった。7月将軍家茂が没し12月徳川慶喜が将軍となるが、各地で起こった世直し一揆はこの年最高潮になっていた。飫肥藩は不測の事態に備えるため武器購入を決めたのであろう。
 不測の事態は湯浅倉助に降りかかった。慶応2年4月15日、倉助持船の大得丸は兵庫を出帆、20日御手洗(呉市)沖で風待ち(停船)していたところ、浪士10人程が乗り込んできて下関へ行けと命じた。この船は日向へ帰る途中、まして下関は不案内であると断るが「打ち果たす」と脅すので、仕方なく瀬戸内を航行していると、更に60人計りが乗り込んできた。現在でいうテロ、船を乗っ取り意のままに運航させたのである。一行は、夜は岸辺に寄せ昼は沖に留まるなどして陸地の様子を窺っていたが、リーダー2人が上陸し帰ってこなかったことから、残った者たちは行動の目的を失い、愛媛沖で見付けた漁船に全員が下船し大得丸は事なきを得た。
 今は小さな漁港となった内海港に、商才に長けた湯浅倉助がいたことを知る人は少ない。

参考資料:史資料の多くは倉助分家の子孫湯浅倉平氏の提供
『伊能忠敬測量日記』宮崎県総合博物館、『高山彦九郎全集第四巻』高山彦九郎遺稿刊行会、 平部嶠南『六鄰荘日誌』青潮社、平部嶠南『嶠南日誌』宮崎県立図書館
※1南村梅軒 高山彦九郎は地名としているが、同名の土佐儒学(南学)の祖がいる。両者関係は不明。
2018-03-27 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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