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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.98 西南の役後宮崎は分県へ
 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 田原坂(熊本県)で官軍に敗れた西郷軍は、人吉から日向に向かった。官軍に追われ日向(宮崎県)の海岸部を北上し、高鍋や美々津、富高、延岡などが戦地となり、「西南の役」最大の決戦が和田越(延岡市)の戦であった。俵野に退いた西郷隆盛は軍を解散した。しかし戦場となった宮崎は甚大な被害を蒙った。町民は家屋を焼かれ、農民では牛馬を徴発され、田畑は踏み荒らされた。若者は兵や兵站に徴用され、更に西郷札の強制使用などで宮崎経済は大打撃を受けた。

 西南の役があった頃、宮崎は鹿児島県に併合され、それまでの宮崎県庁は「宮崎支庁」、つまり鹿児島県庁の支庁となっており、支庁役人や各区区長などに至るまで鹿児島人に占められていた。役人や区長は宮崎の人民に対し西郷軍入隊を強力に勧めていた。
 後に、鹿児島県からの分離独立、宮崎再置県の旗頭となる川越進は、明治8年(1875)宮崎県租税課勧業兼雑税係であったが、同9年宮崎県が鹿児島県に併合されると、鹿児島県御用掛を命じられ有無を言わせず鹿児島県庁役人にさせられたのであった。
 川越進は西郷隆盛挙兵には不同意であることを書面で区長に申し出、士族の会議にも欠席していた。

 「五月下旬ヨリ中旬ナリシヤ(略)日向一般壮兵ヲ募リテ兵隊ヲ編成セントス、その他金穀徴集等総ヘテ圧ニ出テ賊勢当ルヘカラサル模様ニ付、自分モ此度ハ迚モ難免ニヨリ寧ロ賊ヨリ迫マラレサルニ及ンテ其意ニ応ジ、他日ヲ待テ計ヲナスニ如カスト決意シ、親友山下源次ヘ深意ヲ告ケ置キ自ラ出テヽ賊軍ニ加入シタリ、ソノ深意ト云フハ賊ヨリ疑ヲ受ケサル中ニ賊ニ与(くみ)シ機会ヲ窺ヒ官軍ニ投入降伏自首スヘシトノ目的ナリ」(『西南の役薩軍口供書』)

 しかし、西郷軍(賊軍)に入隊しなければならない状況に追い詰められ、それならばと自ら志願入隊し機会をみて脱走、官軍に投降しようと心に決めた。
 5月29日飫肥隊の大小荷駄方となり宮崎を発ち、佐土原・高鍋をへて延岡へ。6月22日延岡を発ち熊田葛葉(北川町)に留まる。6月24日赤松峠の戦いで隙あらば官軍に投降しようと計画していたが、大小荷駄方では脱走の機会がないことが分かり、飫肥隊総括小倉処平に頼んで探偵係(斥候カ)に替えて貰った。7月1日賊軍(西郷軍)は赤松峠の官軍を襲撃する筈であったが、八戸から梓峠・木浦を遊撃する計画に変更となった。この事を早く官軍に報告せんと陸地(かちじ)峠の探偵に名を託し、葛葉の小倉処平に別れを告げて同所を出立した。陸地(北川町)の番兵を欺き、夜になるのを待って山中に潜匿し、翌2日午前3時頃密かに山を下り官軍哨兵に投降した。(『西南の役薩軍口供書』)

 明治9年(1876)、鹿児島に併合されて以来、宮崎は多くの面で不利な状況に置かれた。例えば、西南の役後1年間、旧宮崎県内の学校は休学しており、小学校への補助金支出があったが薩摩・大隅の県会議員が反対し、更には宮崎農学校講習所を鹿児島県会で廃止し、補助金などを薩摩・大隅の道路建設に転用した。また、宮崎は薩隅2国より広い国土でありながら財政支出配分で薩隅に偏っていたし、県会議員割合も宮崎は3分の1であり議会決議で不利を蒙っていた。さらに鹿児島県庁に行くにも交通不便で日数も多くを要するなど併合でよい事は無かった。
 川越進は明治13年(1880)には鹿児島県会議員となった。後に県会議長となり宮崎再置県に奔走した。
 いく度にも亘る「分県誓願」は常に薩隅の反対で否決され悔しい思いをするが、それでも根気よく薩隅議員を説得し明治16年5月9日再置県を成し遂げた。
 それまでの苦労や悔しさを忘れないよう宮崎県民は書き遺した。

 「明治九年八月に至り鹿児島県に隷属せしめらるゝに及んで、国内(県内)の人心平ならず、有志相議して分県を謀り、熱心奔走するもの多年、遂に明治十六年五月を以て宮崎県再置の令を受け、旧の如く一国(県)を自治の下に復するを得、以て今日に至れり。
 此分県は一面に於いて国人(県人)の自奮を促し、県勢発展の礎を成せるものとして永く記憶するの価値あるべきを以て、ここに少しく其前後の事情を叙述し置かんとす。
 日向と薩摩とは素より国勢を均しうせず、之を同一行政の下に管するに於て相扞格(あいかんかく)する所あるは必然にして、日向は常に不利の地に立たざるを得ず、県会に於ても日向選出の議員少数なるが為に、十分其権利を伸ぶるに由なく、延いて産業の阻碍、人心の萎靡(いび)を招くこと至大なるものあり。しかも当時尚官権の過重されし時代なりしを以て、深く怨嗟を恨んで多くを言ふ者なかりしと雖も、心あるの士は之を憂ふること厚く、屢々(しばしば)相会して謀る所ありしが、遂に分県の議を提げて敢然として起つに至れり。而して其急先鋒として驀進せる者を川越進、橋口善千代、中村二逸の三氏と為す。(後略)」(『宮縣大観』)

 川越進は嘉永元年(1848)飫肥藩清武会所勘定方川越茂平の長男として木原村(清武町)に生れた。幼少より聡明といわれ6歳から15歳まで清武郷校「明教堂」で学び、21歳のとき家督を継いだ。明治3年(1870)清武会所に勤め、同5年都城県より第47区(加納)戸長を命じられた。明治13年鹿児島県会議員、後に県会議長となり、同23年衆議院議員に当選、以来5回当選し国政の上に大きな功績を残した。

参考資料:小寺鉄之助遍『西南の役薩軍口供書』、日高篤盛「宮崎県独立(再置)運動の功労者川越進」『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社
2018-01-23 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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