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みやざき風土記
県総合博物館・県文化課・県立図書館で民俗や文化財、郷土史料等専門的業務に長年従事した専門家が、風土や風俗、伝統芸能、地域史など宮崎の文化を分かりやすく紹介します。
 
No.174 伝統的な踊りを変えた熊襲踊
前 田 博 仁 ( )
 都城市庄内に熊襲踊が伝承する。熊襲とは記紀伝説に見える肥後の球磨と大隅の曽於に居住した部族、クマ・ソらしい。熊襲族は日本武尊(やまとたけるのみこと)の征討伝説で著名。
 熊襲踊はバラ踊とも言った。バラとは割り竹で編んだ径1m余の円形の農具で主に豆類や穀類の乾燥に使用する。
 バラ踊りは2個のバラを縁で合わせて太鼓状にして、それを腹部で支えバラの中央部をバチで叩きながら踊る。様子は都城市今屋やえびの市西長江浦の大太鼓踊りなどに似る。
 国富町八代にバラ太鼓踊(県指定文化財)がある。踊り手はバラを腹につけ、白の浴衣に黒帯を締め裸足、背に矢旗を負う。楽は鉦、本鉦3個と中鉦3個の6個で構成、それにバラ太鼓のバタバタという音が加わる。奉納されるのは諏訪神社の祭礼のときだけ。天正13年(1585)諏訪神社が再興され、領主島津義久の武運長久と郷中繁栄を祈念して始まったと伝える。
 歌詞、お諏訪に参りて見てやれば 四方泉水あらみごと
    東の表を見てやれば 杉に芭蕉に川菖蒲
    南の表を見てやれば 黄金の鳥居が立ったよな (略)
 庄内の熊襲踊は元もと「バラ踊」と言い、
    そろた そろたよ踊り子がそろた 稲の出穂よりや まだそろた
    おでんど岳から小林ゆ見れば いづれ小林や米どころ
    高い岡から谷底見れば 瓜やナスビの花ざかり
という歌詞で歌い踊られた。衣装も踊組は尻切れバンテン(コダナシとも)という野良着、鉦組は陣笠に紋付羽織と袴を着用していた。

 ところが熊襲踊と称するようになると、シュロ皮のマゲ付きの被り物に、赤や黒の鬼神を思わせる仮面を着け、白の襟なし筒袖に白のズボンを履く。さらにシュロ皮の手甲脚絆をつけ、ワラ製の異常に大きいタスキをかける。「高い岡をら熊襲じゃないか 鬼か鬼人かばけものか」と歌出しの歌詞にあるように、毛むくじゃらの野人・蛮人すなわち熊襲をイメージした衣装に変えた。太鼓も径140僂涼殞悗涼羶管瑤法径45僂粒笋蠱櫃鯤圓鵑席を吊り下げ、農具のバラとは異なったものになった。

 荒川内四郎助という老人が記憶してたものを書き留めた「熊襲踊口傳」がある。概要を示すと、熊襲は昔この地方に住む悪者で、これを退治しない限り穏やかな暮らしは出来ないと天皇に依頼すると日本武尊を派遣、日本武尊は新築祝いの酒席に若い娘に変装して紛れ込み、酔いつぶれた熊襲梟師(たける)を成敗した。住民は喜びバラやクワなど農具を手にして踊ったのが踊りの始まりとする。
 景行天皇が息子である日本武尊に朝廷の意に染まない熊襲を征伐するために遣わした「日本書紀」の話をもとにしている。
 歌詞も 熊襲梟師が新室(にいむろ)宴 宴半の小夜嵐
     日本武(やまとたける)と御名奉る さすが熊襲の断末魔 (以下略)
となる。
 衣装や太鼓が変わり、歌詞も「そろた そろたよ踊り子がそろた。(略)」というどこでも歌われる歌から熊襲征伐の内容に変わった。
 自分たちが頭といただいた族長が他所からきた刺客まがい者に殺害され、身近にある物を持って喜び踊るものだろうか、という疑問も生じる。
 昭和の初め頃、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)の教授であった八波則吉が、町の依頼を受けて作詞したものである。ちなみにこの八波は庄内小の校歌も作詞している。この校歌は終戦後新しい民主社会になったとき、時代にそぐわない箇所があり蓑部哲三が改作している。八波の熊襲踊や庄内小校歌の作詞は同じ時期と推測する。

 昭和35年の『日向の民俗芸能』に熊襲踊が記載された数枚の写真がある。衣装のワラのタスキやシュロの被り物は現在と同じだが、絣の仕事着らしい着物を着用している。これが筒袖が白の現在の衣装に変わったのは、皇族の宮崎行啓に際し宮崎交通のトップクラスの人物によるアドバイスがあったと言われている。

 一般に文化財の指定は、歌や衣装、芸態が本来の踊りから大きく変わっている場合対象にはならない。国富町八代のバラ太鼓踊が伝えるように、庄内のバラ踊も領主島津義久の武運長久と郷中繁栄を祈念して諏訪神社に奉納され永く踊り継がれたと思われるが、そうであれば改変された熊襲踊が対象にならないことは明確である。しかし、昭和初期に変わり地元ではそれが定着し踊り継がれている事実を認めたのであろう。宮崎県教育委員会は昭和47年に無形民俗文化財に指定している。

参考資料:『日向の民俗芸能』宮崎県教育委員会、『都城の民俗芸能』都城市民俗芸能保存連合会、『みやざきの「うたと芸能101」』宮崎県
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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