宮崎みんなのポータルサイト miten !でグルメ・イベント等の生活情報をチェック!
働いてミテン
ユーザー名:
パスワード:
トップ | 無料会員FAQ | サイトマップ | リンク集 |
すべて 食べる
遊ぶ 買う
キレイ 暮らす
健康 医療・福祉
でかけてmiten
買ってミテン
働いてミテン
ミテンの本棚  >  宮崎、歴史こぼれ話

宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.97 西郷軍を賊軍と呼んだ福島邦成
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 西南の役について、各所での戦況記録や従軍日記などは多くみられるが、戦火に巻き込まれた個人の記録は殆どない。福島邦成(ふくしまくになり)という個人が見聞し、戦火に遭遇し、どのように思い考えたか、西南の役勃発の少し前、明治9年(1876)12月から10年11月までの凡そ一年間、官軍と西郷軍の動向を追って記している。

 福島邦成は太田村(宮崎市)の医師、旧延岡藩の士族、大淀川に最初の橋「橘橋」を架けた人物である。橋の名称「橘」は邦成の命名。

「明治九年十二月以来、何かよく分からないが世評が騒がしくなってきた」と書き出し、「十年一月より二月に及び宮崎支庁に奉務せる鹿児島地方衆の多くの官員並びに各区区長などに至るまで、鹿児島出身役人の殆どは引き払い、僅かな下級役人が務めるだけになっていた。」

 宮崎支庁とあるのは、明治9年(1876)8月21日明治政府の行政整理により、宮崎県が鹿児島県に併合され、それまでの宮崎県庁は「宮崎支庁」、つまり鹿児島県庁の支庁となっていた。支庁役人の殆どは鹿児島出身でそれらは殆どは鹿児島に帰っていた。残っていたのは僅かな宮崎出身の下級役人だけであった。

「巡査は放免され、鹿児島から帯刀の者多数が来て日夜見廻り恰も巡査の様であった。更に風聞に陸軍省弾薬製造所の変動鹿児島に起これり」

 巡査は解雇され、鹿児島から帯刀の者多数が来ており、更に西郷が創立した私学校の生徒による火薬庫襲撃が噂になった。
 2月10日、景況を探偵するため息子の邇を鹿児島に遣わした。

「西郷大将等政府訊問ノ主意アリ、旧兵隊ヲ引キ上京途中、各府県鎮台エ通行ノ差シ支エ無キ様、専使ヲ派遣セシメ(略)」

の県令広報を見て邦成は大いなる不審が生じた。
2月19日、鹿児島より邇が帰宅。曰く、15日、16日、17日の3日間に大軍が熊本に出発するのを目撃したとの話を聞いたと伝えた。

「四月五月を経て敗賊が馬見原(日向・肥後境)より日向に入来、賊兵一団となって宮崎を根拠とする。本営や軍務所を置き、区戸長を改めて郡宰郡吏とし、士民に出兵させ或いは弾薬製造所の労働に就かせた。(私は)医者を生業とするも、病院を遁れて負傷賊を取扱わなかった。息子は賊将より出兵を命じられるが病と称して漸く脱した。」

 「六月七月に至って数多の農兵を繰り出し、偽貨の布幣を造り、その他大砲小銃木製鏃等の製造工場があったが、邦成はこれらに一切立寄らなかった。」

 西郷軍は鹿児島県に併合された宮崎支庁とその下部組織である区長や戸長を利用して、士族や農民の動員に当たらせた。桐野利秋は宮崎支庁を軍務所に改め、宮崎は西郷軍の軍政下に置かれ、資金や物資調達、西郷札使用を強いられた。

「七月初めのある夜、十時頃既に就寝していたが、不意に西郷軍十五、六人が家に押入り捕縛した。大淀川を渡り本営の傍らにある屯所に連行され種々糾弾された。翌日本営に於いて桐野外一名より兼ねて嫌疑の筋を詰問され、弁解し漸く死地を遁れることができた。六月以来、兵火の難を畏れ町民は家具類一切を遠近の僻地に運んだが、私は嫌疑をかけられていることを考慮して動かなかった。七月二十四、五日、初めて大方の家具をまとめて接近の農家に移した。」

「二十八日、官軍が清武で大勝し、賊兵は狼狽して宮崎へ敗走した。夜九時、町内の状況を探った。人影は無く犬猫一匹も見なく、負傷した賊兵があちこちの軒下で呻いていた。市街の北詰に松明火を見たので潜行し望み見ると、賊兵五、六十人が家から畳を出して胸壁や砲塁を築いていた。」

「嗚呼、官軍進撃何為ソ遅キヤ、渇望スルモ及ハス」

「深更、小銃か爆竹と思われる音がして外に出た。市街北詰の方に空を満たす火煙を見る。賊兵が市中を焼き退去しているのであろう。賊兵七、八名が大淀川南岸の家々に松明で火をつけるが見えた。驚いて我が家に帰り家族を避難させ、自分は刀を帯び最寄りの山に避け、城ヶ崎町や中村町、太田村、福島町などの炎焼を遠望した。」

「二十九日午前五時三〇分、我が家の焼け跡を訪ねようとするとき、遥か南方の街道に兵隊が進み来るを見た。これ官軍と察し我が家の存凶を問わず、直ちに方位を転じて快走し第一番に出迎えた。第四旅団だった。長官謁見を請い曽我祐準少将に会い、賊の形勢を説明し地の便否を告げた。我が家に帰ると塀や門が燃えており桶水で消火したが家屋は無事だった。」
「望外ノ喜ヒ恍惚トシテ夢ノ如シ」

 熊本で敗れた西郷軍は宮崎に敗走、さらに北上して高鍋や美々津、富高、延岡、和田越えなど各地が戦場となった。家屋の焼失、田畑の荒廃、牛馬の徴発、西郷札強制使用などによって宮崎の経済は大打撃を受けた。その上若い人材の喪失もあり宮崎の近代化は大きく遅れた。心ある県人は鹿児島から分離、独立つまり分県を考えるようになり、6年後漸く宮崎は再置県をなしとげた。

 西郷隆盛に対し鹿児島県人でもない宮崎県人が「西郷さん」と親しみを込めて呼ぶ。福島邦成のように客観的に歴史をみる者は、西郷軍を明治政府に盾突く反逆集団、反乱軍、賊軍という認識でみる。
 無禄となり武士の特権もなくなった不満武士集団の頭目西郷隆盛には、農民や町人の苦労を推し量る度量はなかったのであろう。
 
※「福島邦成日記」福島邦成、『宮崎県大百科事典』『写真集宮崎100年』宮崎日日新聞社『日隅薩商工便覧』
※本日記は難解な漢語で記述されており筆者が意訳した所もある。
2017-12-26 更新
2018 | 01
2017 | 01 | 02 | 03 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2016 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 12
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12
著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
(1) 2 3 4 5 6 7 8 9 10 » 
PopnupBlog 3.0 Denali-1225 created by Bluemoon inc.  
e87.com(株式会社千趣会イイハナ)
富士通パソコンFMVの直販サイト富士通 WEB MART