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宮崎、歴史こぼれ話
科学技術の発展を別にすれば、武士や庶民の生き方考え方などは現代と同じ。民俗的視点から学校の歴史学習では習わない当時の人々の生活を紹介します。
 
No.93 飫肥西郷 小倉処平
前 田 博 仁 ( 宮崎民俗学会副会長 )
 和田越の戦で大腿部に銃創を負い、愛宕山山麓(北川町)で自刃(じじん)した飫肥(日南市)の小倉処平(おぐらしょへい)がいる。

 弘化3年(1846)飫肥藩士長倉喜太郎の三男として生れ、後に小倉家の養子となる。慶応年間(1865-68)江戸に遊学、儒者 安井息軒に学び、戊辰の役が勃発すると藩命により京阪を奔走し志士と交わった。
明治元年(1868)、後に外務大臣となる小村寿太郎ら少年たちに洋学を学ばせるため、藩に建議して長崎に遊学させ、さらに寿太郎を大学南校(東京大学の前身)に進ませた。
明治3年文部権大丞となり、翌年、命によりロンドンに留学し同7年帰国した。不平士族が蜂起した佐賀の乱で飫肥に逃れてきた首謀者 江藤新平をかくまったことで、禁固70日に処せられるが、刑を終えて再び上京し、大蔵省七等出仕となるが、明治10年(1877)2月、西郷隆盛が挙兵したとの報に接し官を辞して帰郷する。
飫肥ではすでに300名が参戦していることを知り、前線に身を投じた。人吉撤退後は奇兵隊監軍(軍隊を監督する)として豊後に出陣、各地に転戦した。

 明治10年8月15日の和田越の戦で負傷、輿(こし)に乗り川坂神田伊助の家に辿りついた。17日、西郷らが可愛へ出立したことを知り、戸板に乗り後を追うが叶わず、三足(みたし)集落から1km程の愛宕山山麓で自刃した。

 藩にあっては小村寿太郎など若手を育成し、ロンドン留学でも能力を発揮したという。風采堂々、気概ある人物と評され「飫肥西郷」と呼ばれた。32歳。

参考資料:『宮崎県大百科事典』、『宮崎縣大観』他
2017-08-21 更新
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著者プロフィール
前田 博仁(まえだ ひろひと)
昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会副会長、宮崎県立博物館協議会会長、
(県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、
(県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員

【著書】
『近世日向の仏師たち』(鉱脈社)
『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社)
『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他

【共著】
『宮崎県史 民俗編』
『日之影町史』
『北浦町史』
『日向市史』
『みやざきの神楽ガイド』
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