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みやざきの近代を読む
宮崎の自然・歴史に関するコラム集!専門家がコラム・情報を掲載しています。
 
No.20 初期宮崎県の頃【6】 〜 鹿児島県へ併合される
籾木郁朗 ( 宮崎県地域史研究会 )
 明治9年8月21日、初期宮崎県が廃止された。鹿児島県は宮崎県全域を含む、薩摩・大隅・日向3か国にまたがる大県となったのである。
 初期宮崎県が設置されたとき、全国的には3府60県に統廃合された。その後も整理が進み、明治9年には3府35県にまとめられ、全国的に県域を拡大させる改革が行われていた。 

 『太政官日誌』には、明治9年第百十二号布告として次のように記されている。
 一筑摩県ヲ廃シ飛弾国ヲ岐阜県ヘ合シ信濃国ノ内ヲ長野県ヘ合併
 一熊谷県管轄武蔵国ノ内ヲ埼玉県ヘ合シ、橡木県管轄上野国山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷  県ヘ合シ、熊谷県庁ヲ上野国高崎ニ移シ群馬県ト改称
 一浜松県ヲ廃シ静岡県ヘ合併
 一若松磐前両県ヲ廃シ福島県ヘ合併、磐城国亘理伊具苅田ノ三郡ヲ宮城県ヘ合併
 一鶴ケ岡置賜両県ヲ廃シ山形県ヘ合併
 一敦賀県ヲ廃シ越前国ノ内七郡ヲ石川県ヘ合シ、同国敦賀郡並若狭国ヲ滋賀県ヘ合併
 一鳥取県ヲ廃シ島根県ヘ合併
 一飾磨県及豊岡県ヲ廃シ播磨但馬両国並丹波国多紀郡氷上郡ヲ兵庫県ヘ合シ、丹後国並  丹波国天田郡ヲ京都府ヘ合併
 一三潴県ヲ廃シ肥前国ノ内ヲ長崎県ヘ合シ、筑後国ヲ福岡県へ合併
 一福岡県管轄豊前国宇佐下毛両郡ヲ大分県へ合併
 一宮崎県ヲ廃シ鹿児島県へ合併
 一香川県ヲ廃シ愛媛県へ合併
 一名東県ヲ廃シ淡路国ヲ兵庫県へ、阿波国ヲ高知県へ合併

この史料をみると、同じ日に14県の廃止と3県の県域変更、1県の県名変更が布告されている。明治9年は、すでに4月18日に足柄県、奈良県、小倉県、佐賀県など10県を廃止しており、計24県が無くなった年であった。
 こうした県の廃止は、様々な改革を実施する財源を確保するため行政整理による経費削減を行う必要があったこと、反政府士族集団を抱える難治県をできる限り排除することが目的であったとされる。それにしても、3年半という短期間で60県を35県にまで減らした大規模な県の統廃合である。地域の実情を考慮しない改革は反発を生み、後に再置県を求める運動が行われることとなった。

 さて、宮崎県が廃止されたことについて、県内の人々はどのように受け止めていたのだろうか。
 まず、県である。県には9月1日に国からの達が届けられた。宮崎県は、8月24日に政府や県からの布告・布達を人民一般に熟知させるため正副戸長に対して注意を促しているし、8月31日には町村会準則を示している。すでに、8月21日に廃止が決まっていたにも関わらず、宮崎県名でこうした事務を行っていることから、廃止の動きを正確には予測していなかったと考えられる。
 次に、日向国那珂郡恒久村の有力者である惣代人たちは、次のように述べている(宮崎県総合博物館蔵 中村文書「日向分県ノ儀歎願」明治十三年)。

  然ルニ明治九年ニ及テ該県ヲ廃シ鹿児島県ヘ合セラル、此時ニ際シ一般
  慨嘆セサルモノ殆ント稀ナリ、之レ薩隅ト日トハ古来風土人情ヲ異ニシ
  内情同一ノ域ニ居ンコトヲ忌嫌セルカ故ナリ

これによれば、薩摩・大隅国と日向国は風土と人情を異にしているため、同じ県域にあるのを忌み嫌っている。しかも、日向国の人々が皆「慨嘆」したというのである。本史料は宮崎県を鹿児島県から分離させる運動(分県運動)の中で書かれたものなので、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないが、一部の人々に「忌嫌」感情が生じていたことは推測できよう。
 また、分県運動の中心人物の一人であった中村二逸は、回想の中で次のように述べている(「分県運動の経過 中村二逸氏直話」<「日州新聞」大正2年7月1日付>)。

  明治九年八月になって図らずも廃県の令が下り、鹿児島県に合併といふ事に
  なった、此時に於ける日向人民の失望と不平とは実に語に尽されぬ位で
  あったが、官憲万能の時代でドウすることも出来なかった

あまり具体的ではないが、政策による合併という政府の圧力に抗することができなかった無力感を「官憲万能の時代」と表現している。
 いずれも有力者層の回想であり、一般の人々の受け止め方はわからない。しかし、その後西南戦争を経て、分県を求める動きが出てくる。廃止・併合への反対の動きは、その直後よりも数年後に起ち上がってきたのである。

 初期宮崎県は消滅した。同年10月9日には宮崎県庁は「宮崎支庁」となり、設定されていた行政区域である宮崎県第1大区〜16大区は、鹿児島県第94大区〜109大区と改められた。こうして様々な変更が行われ、鹿児島県下にあることを認識させられることとなった。
 一方、鹿児島県は、”難治県”でありながら県域が南九州全体に広がった。政府の政策は強硬に進められたが、このような”矛盾”を抱え込まざるを得なかった。


【参考文献等】
 『太政官日誌 明治九年第六十五号』(国立公文書館蔵)
   *アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/ より
 『宮崎県史 史料編近・現代2』宮崎県、平成5年
 『宮崎県史 通史編近・現代1』宮崎県、平成12年
 「日州新聞」大正2年7月1日付
 『宮崎県再置 三十年記念誌』宮崎県、大正3年
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