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みやざき考古楽
私たちは、過去を見つめてはじめて今日を知り、未来を見通すことができます。
宮崎の歴史や文化について、考古学の観点から分かりやすく紹介します。
 
No.29 「城」と言えば・・・
東憲章 ( 県教育庁文化財課 )
 「城」と聞いて真っ先に何をイメージするだろうか?
 石垣や水堀、壮麗な天守閣が浮かぶならば、それは大阪城や姫路城のような城を思い浮かべているのだろう。

 県内には国の史跡に指定されている城跡が3つ存在する。都於郡(とのこおり)城跡(西都市)、佐土原城跡(宮崎市佐土原町)、穆佐(むかさ)城跡(宮崎市高岡町)であるが、いずれも石垣や天守閣を持つ城ではない。広大な火山灰台地の一角や丘陵地を利用し、空堀でいくつもの曲輪(くるわ)を区画したものである。平坦に造成された曲輪上には、多くの建物が存在したと思われるが、ほとんどが柱を穴に埋め込んで建てた「掘建柱建物」であった。
 こうした城は、鎌倉時代から戦国時代まで、「中世」と呼ばれる時期の所産であり、中世城館と呼ぶ。広大なものから「砦」的な小規模なものまで含めると、宮崎県内には300に近い数の中世城館が存在したと言われている。

 そもそも「城」という字は、「土」へんに「成る」と書く。大地を利用し、土を掘り、土を盛り、土によって形成されるのが「城」である。その主たる機能は「防御」であり、いかに攻められにくい城とするか工夫を凝らしている。

 はじめに書いた石垣や天守閣を持つ城は近世のものである。天守閣を持つ最初の城は織田信長が築城した安土城と言われているが、築城後間もなく焼け落ちたこの城は、詳細な記録なども少なく幻の城とも言われている。(近年では、滋賀県教育委員会の継続的な調査研究により城の概要が明らかになってきているが・・・)
 防御機能よりも視覚的な偉容を誇示するための天守閣を伴う城は、織田信長・豊臣秀吉の時代から盛んに築城されたことから、「織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)」と呼ばれる。

 それでは、県内には近世の城は無いのか?
 これも3つ存在する。延岡城跡(延岡市)、高鍋城跡(高鍋町)、飫肥城(日南市)で、いずれも石垣や堀が残されている。このうち、高鍋城と飫肥城は中世城館を近世的に改修したものであり、曲輪の構造や配置など城としての全体像(=縄張り)は中世的である。これに対して延岡城は、1600年代初めに、当初から近世的な織豊系城郭として築城された。17世紀頃の日向各地の主要城郭を描いたと思われる『慶長日向国絵図』(臼杵市立図書館蔵)には、他の城郭には見られない3層の天守閣や櫓建築などが描かれた「縣城」(=延岡城)が見られる。

 国史跡「佐土原城跡」は、丘陵の先端部に連続する曲輪を造成した中世城館であったが、17世紀に入り丘陵裾部に居棺を移し、城下町形成も含めて近世的城館に変容した姿がうかがえる。1990年代の発掘調査では、本丸と見られる曲輪の一角で、方形の石組基壇や金箔付き瓦が発見され、重層の建物(櫓or天守?)が存在した可能性が指摘された。

 国史跡「都於郡城跡」と国史跡「穆佐城跡」は、相互に独立的な曲輪の群集と大規模な空堀(堀切り)が良好に残存し、南九州的な広大な城の姿を見せている。いずれの城跡も地元教育委員会により整備に向けた発掘調査が進められている。巨大な石垣や壮麗な天守閣は存在しないが、大地に刻み込まれた空堀の深さと大きさは圧倒的であり、城作りに懸けられた人々の情熱が押し寄せてくる。
 秋風を感じながら、中世の城跡を散策するのもお勧めである。
2009-08-27 更新
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