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みやざきの近代を読む
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No.27 鹿児島県時代の宮崎【7】〜西南戦争と日向国(その6)−高瀬〜田原坂の戦い(2)
籾木郁朗 ( 宮崎県地域史研究会 )
 こうして、ついに田原坂をめぐる両者の戦いが始まった。戦いそのものを詳述はできないが、『西南記伝』をもとに、3月6日以降の攻防を日を追って記してみよう。

 3月6日 政府軍の第二次総攻撃。しかし、激しく横からの攻撃を受け、いたずらに御多大の損害を受け、目的を果たさずに退却した。西郷軍の士気は旺盛で、田原坂突破はできなかった。
 3月7日 政府軍は二俣より第三次総攻撃を開始。激戦となるが、西郷軍抜刀隊の夜襲により政府軍苦戦。
 3月8日 再度二俣口より攻撃を開始。西郷軍の抵抗により状況に大きな変化なし。
 3月9日 政府軍は横平山を重視し、迂回して西郷軍の陣地を奪う。横平山で激戦。
 3月10日 政府軍は諸兵を休養させる。西郷軍は保塁を襲撃。
 3月11日 政府軍は第四次総攻撃を開始。田原坂・二俣・横平山を攻撃した が、一進一退の攻防が続く。
 3月12日 吉次の西郷軍は分かれて2隊となる。偵察隊より西郷軍が木葉を急襲するという報告があり、政府軍はこれを破る。横平山で激戦。田原坂・二俣方面へは進軍せず銃で応戦。
 3月13日 政府軍は大軍で総攻撃の予定であったが、取りやめとなる。政府軍は西郷軍に対抗して、巡査から選抜した抜刀隊を結成。
 3月14日 政府軍の抜刀隊が早朝から活躍。西郷軍の塹壕奪取に成功したが、開戦以来最多の死傷者が出た。特に政府軍は死傷将校19名、下士卒303名、失踪者2名を出した。

 この日までの状況を『西南記伝』は次のように伝えている。
 「此月、初旬以来、官軍全力を田原方面に致し、昼夜激戦間断なく、尚ほ更に数次の迂回運動を試みしも、薩軍険に拠て死守し、殊に抜刀隊を用ひて、勇敢の突撃を繰り返し、官軍常に之に苦めるを以て、良射手を各隊に抜きて狙撃隊を編成し、僅に之に抗せしも、其後数回の戦闘を経て生残するもの幾んど稀に、従ひて復た大に恃頼するに足らざりき。因て警視隊中より抜刀隊を組織し、之を狙撃隊に加へ、以て敵勢を挫かんとし、此日始めて戦闘に参加せしめしが、意外の効果を得て、爾後屡ば奇功を樹つるに至りたり」 
政府軍が西郷軍抜刀隊に相当苦しめられていたこと、斬込隊として同様の抜刀隊を組織して対抗せざるを得なかった状況をよく表現している。政府軍抜刀隊の主力は鹿児島の郷士階級の巡査らであったのだが、それに旧会津兵が加わっていたことはよく知られている。旧会津兵は、幕末に同盟関係にあった鹿児島藩に裏切られて戊辰戦争で敗れ、藩が転封されるなどの苦しみを味あわされたことから、西郷軍に対する敵対心は非常に強かった。

 3月15日 西郷軍は横平山を奪回。しかし、政府軍抜刀隊により再度奪回される。西郷軍は二俣口に夜襲をかけたが敗れた。この日、西郷軍の諸隊の多くは弾丸が不足し、石を代用したといわれる。
 3月16日 激戦なく、銃戦のみの応戦
 3月17日 第五次総攻撃開始。上田良貞大警部が率いる抜刀隊40名が西郷軍の保塁を襲撃し、一気に3つの塁を奪った。しかし、戦闘は激しく政府軍は211名死傷、西郷軍は15名の死者であった。
 3月18日 政府軍第一・二旅団、近衛兵が二俣口を攻撃。「飛弾急雨の如し」と表現される戦いであった。第一旅団第一連隊の兵約十五名は「弾雨を冒し匍匐して塁下に至り、隙を伺ひ突入せんとせしも、薩軍塁の左右に出て、其側面を射撃し、官軍帰路を失し、皆死するに至る」と記されるなど、政府軍は死傷者172名を出した。西郷軍はこの攻撃にも屈せず、政府軍は退却せざるを得なかった。

18日、政府軍の野津、大山両少将は、田原坂の戦いについて次のように述べた。
 「我軍の二俣及田原を攻撃する既に十有六日を費し、激戦殆んど間断なく、将士死力を尽すと雖も、未だ以て敵兵を駆逐し、熊本の城圍を解くこと能はず。斯の如くして、徒に曠日弥久せば、恐くは城中糧竭き、丸空しく、遂に陥落の悲運に会する、甚だ遠きに非ざるべし、吾人当に万死を賭し、夕を期して此険を突破し、以て其急を救はざるべからず。諸君、乞ふ其れ努力せよ」
田原坂での戦いはすでに16日を経過し、多数の死者を出していた。しかし、西郷軍を駆逐できず、熊本城に籠城している鎮台兵士たちを救うこともできない。このままでは近いうちに熊本城は陥落するから、命を賭して戦わなければならないが、政府軍側は諸隊がみな連日激戦が続き将兵とも疲弊しきっていた。そこで、19日は休戦し、兵士らに休養を与えたのである。

 3月19日 政府軍は休戦。西郷軍の熊本隊は、七本を新参の高鍋隊に譲り吉次へ移動した。
*このとき、初めて日向国旧高鍋藩の士族を中心に編成された高鍋隊が参戦した。

 高鍋隊は当初出兵を見合わせていたが、3月9日に200余人を2小隊に編成し出兵したのである。銃器弾薬・軍資金は軍事世話係の武藤東四郎と黒水長慥が調達した。山鹿へ向かった一行は、14日に急遽田原坂救援へ変更されたため植木に宿泊。翌15日に田原坂の熊本七番隊(西郷軍)の救援に向かった。16日には戦闘に参加し小隊長石井習吉をはじめ6名が負傷した。18日には政府軍の不意打ちに戦死者8名を数えた(石川正雄「西南の役と高鍋隊」)。 

 3月20日 第六次総攻撃開始。右翼隊、新参の高鍋隊を撃破し柿木台場を占領。
中央隊、田原坂を突破。西郷軍、田原坂撤退するも向坂に布陣し奮戦。

 高鍋隊は貴島隊に属し、政府軍を向坂で迎え撃った。高鍋隊参謀長の水町実武以下27名が戦死し8名が負傷したという。この日の総攻撃で、政府側の死傷者は427名、失踪者21名にも及び「街道の遺屍のみを以てするも、無慮二四〇名に上り、纔に逃れて植木に達するを得たりき」(『西南記伝 中巻一』)というほど被害が大きかったが、戦闘の結果、田原坂は政府軍の手に落ちたのである。
 「田原坂の戦、幕を三月四日に拓き、爾来十有六日を経て、遂に官軍の手に帰せしなり。而して此戦闘、彼我共に精鋭を傾倒し、一攻一守、一興一奪、最も惨憺激烈を極め、官軍の死傷、実に三千を算するに至り。又、其弾丸を費すこと、一日約二十一万発、一人にして或は千余発を発射し、之が為に銃熱し、屡ば溺して之を用ゆるに至る、而して弾丸供給の方法は、軽砲廠部を設置して、弾薬を軍後各所に分蓄し、人夫を役して之を戦線に致し。人夫一名の携ふる所、大約千発に出入す。此の如くして尚ほ時々欠乏を訴へきと云ふに徴すれば、亦以て激戦の一班を推想するに足るべし」(『西南記伝 中巻一』)
この記録が戦闘の姿を正確に伝えているとすれば、一日約21万発、一人あたり約千発もの弾丸が飛び交い、銃は熱くなり水に浸して冷やしながら使った。弾丸を製造する拠点を近くに設け、一人あたり千発を持たせて補給したという。使用した弾丸の数だけからみても戦闘の激しさを物語っている。

 こうして、田原坂を失った西郷軍は、大幅な後退を余儀なくされる。高鍋隊は、熊本城の攻撃に向かったのである。


【参考・引用文献等】
 *小川原正道『西南戦争』中央公論新社、2007年
 *黒龍会本部編『西南記伝 中巻一』黒龍会本部、1909年
 *石川正雄「西南の役と高鍋隊」(『宮崎県地方史研究紀要 第四輯』宮崎県立図書館、1978年)


<写真>
*現在の植木町田原坂資料館
 〒861-0163 熊本市植木町豊岡862  TEL(096)272-4982
URL  
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/link/museum/north/ueki.html
http://www.manyou-kumamoto.jp/html/S752.html(満遊くまもと)


2011-10-28 更新
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