ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() ![]() 宿出立は概ね午前6時頃、宿に着くのは午後2時頃、伊能は日記や地図整理など従事するが、測量する藩の役人や庄屋などの挨拶に応対することもある。、夜は天測をすることも日常のことである。 文化7年4月14日、佐土原藩の使者が訪問し鰹節が贈られた。伊能に150本、坂部に130本、下河辺・青木・永井に100本宛、内弟子3人と侍2人に70本宛、竿取2人には鼻紙7束宛、小者5人には鼻紙5束宛が下されている。地元物産だけでなく金の場合もある。国東では伊能へ金5百文と大鰹節100本、坂部金1両と中鰹節100本、下役3人には金2百文と鰹節50本宛、内弟子3人と侍3人には金100疋と鰹節30本宛、供廻り7人には銀1両と鼻紙2束宛で、一行の上下関係が明確に分かる。 1日の測量状況を4月22日を示すと、先手後手とも午前6時頃江田(宮崎市)を出立。江田村下海辺から測量を始め、新別府、吉村、赤江川(大淀川)まで測り、それから入江、蟹町、瀬頭、そこで先手と合測する。先手は城ヶ崎、中村、上町と測量し瀬頭で後手と合測する。両手とも正午前に城ヶ崎に着く。宿は本陣梅香屋文平、脇宿は和泉屋善右衛門の家で、本陣は南村家、脇宿は南村分家と思われ両家とも城ヶ崎町の豪商である。 城ケ崎は大淀川下流右岸に位置し交易によって栄えた商人町。別当、乙名、本締など町の要職は太田・南村・小村の3家が占めた。 赤江川の記録に「此赤江川を小戸の渡と古ハ云よし、中臣祓ニ小戸橘と云を此川のよし」とあり、中臣の祓いとは「禊祓詞」のこと、一部を示すと「(略)筑紫日向の橘の小門之阿波岐原に身滌祓(みそぎはら)ひ給ふ(略)」、日向、小門(小戸)、阿波岐原などがあり、地元の案内者が説明したことに納得したのだろう。中臣氏は天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当、大祓の儀は中臣氏が中心となって奉仕したから(中臣祓と)いう(『広辞苑』)。 ![]() ※伊能忠敬 上総(千葉県)の人、18歳のとき下総佐原の酒造家で名主の伊能家に入婿、家業の興隆につとめた。その間算数・測量・天文など研究し、50歳で家督を息子に譲り江戸に出て、高橋至時に入門して西洋暦法測図法を学んだ。寛政12年(1800)以降、幕命により全国を測量して地図を作製、幕府天文方と「大日本沿海輿地全図」を完成した。 参考資料『伊能忠敬測量日記』宮崎県総合博物館 |
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2020-09-23 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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