ミテンの本棚 > 宮崎、歴史こぼれ話 | ||||||
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![]() 元禄3年(1690)9月19日、山陰・坪谷両村などの百姓は川舟で余瀬(日向市)へ約430人、陸路又猪野(都農町)へ約600人、石並川原(日向市)約400人、石河内(木城町)へ3、40人が逃散した。最終的に高鍋藩又猪野に男821人女596人が小屋掛けした。 高鍋藩の対応について、『高鍋藩拾遺本藩実録』で追ってみる。 元禄4年正月6日、延岡藩主有馬氏の使者が欠落百姓を渡して欲しいと来る。 7日、引取り使者有馬金兵衛が美々津に来る。高鍋藩からは小坂六郎左衛門ほかが美々津に行き話し合う。六郎左衛門と延岡役人が又猪野に出向き、百姓たちと話し合うが百姓たちは納得しなかった。 12日、有馬金兵衛の使者が美々津に来る。欠落百姓との交渉を依頼する由。これにより河野七郎兵衛他が又猪野に行くが百姓たちは納得せず。 24日、欠落百姓にも考えが分かれ11竃54人が説得を納得した。 2月朔日、欠落百姓20人程を江戸へ引連れると延岡藩から言ってきた。御使団並びに舎人3人が着く。 21日、高鍋藩は20人は江戸行きを承知しないことを有馬金兵衛へ飛脚で連絡する。 3月9日、山陰立退き百姓の内、福瀬の者10竃が元の通り帰参。 21日、5竃男女22人説得に応じ帰参する。 29日、又猪野の欠落者に病人が多く発生、段々死に至る。百姓の願いで高鍋藩真言宗高月寺の祈祷札を調えるよう申渡した。 4月15日、欠落百姓の善内に公儀より召連れるよう飛脚が来た。これにより付人丸尾長兵衛以下7人、足軽6人。長兵衛の鑓持ち下僕1人。 6月22日、欠落百姓が大勢患い、美々津より(医者)2人遣わし薬を与えた。高鍋からも永友玄牧を遣わした。 7月4日、延岡より使者2人は美々津に来る。股猪野から178人を美々津に呼寄せ、評定を申渡した。又猪野の小屋は入らないよう壊した。 13日、仁保庄兵衛より幸脇(日向市)で受取ると言ってきた。隈江五郎左衛門らが美々津に行き、泥谷次太夫などは又猪野に行った。翌朝庄兵衛が受取に来る言ってきたので、美々津川原に百姓たちを置いた。寝ずの番だった。 ![]() なお、山陰の成願寺に処刑された者の供養塔が文化8年(1811)建立され、これを朝参(ちょうさん)供養塔と言っている。 参考資料 『宮崎県史料第二巻高鍋藩拾遺本藩実録』宮崎県立図書館 『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社 『東郷町誌』東郷町 『郷土歴史大事典 宮崎県の地名』平凡社 |
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2020-10-27 更新 | ||||||
著者プロフィール | ||||||
前田 博仁(まえだ ひろひと) 昭和40年宮崎大卒。県内小学校、県総合博物館、県文化課、県立図書館を歴任、平成15年宮崎市立生目台西小学校校長定年退職。現在、宮崎民俗学会会長、宮崎県立博物館協議会会長、 (県)みやざきの神楽魅力発信委員会副委員長、(県)伝統工芸品専門委員、 (県)神楽保存・継承実行委員、「米良山の神楽」記録作成調査委員 ![]() 『近世日向の仏師たち』(鉱脈社) 『薩摩かくれ念仏と日向』(鉱脈社) 『近世日向の修験道』 (鉱脈社)、他 【共著】 『宮崎県史 民俗編』 『日之影町史』 『北浦町史』 『日向市史』 『みやざきの神楽ガイド』 |
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